保育園におけるこどもの声は騒音なのか

■こどもの声は騒音になるのか

漫画家のさかもと未明氏が、飛行機内でのこどもの騒音についてJALに抗議して炎上した。

再生JALの心意気/さかもと未明(漫画家)- PHP Biz Online 衆知 (Voice) 

この一連の流れのなかで思い出したのは、「保育園の騒音問題」である。

10月にも、保坂展人・世田谷区長が「保育園のこどもの声がうるさいというクレームが多い」とツイートし、AERAにも特集が組まれた。

 さかもと未明氏の主張に対してネット上では、「こどもが泣くのは当たり前」や「嫌なら飛行機に乗らず泳げ」とか、あるところでは「こどもの元気な声を封殺してはならない」というような否定的な意見を中心に炎上していた。
 言うまでもなく、これらの意見は、<こどもの声> を問題にしている。こどもの声を「困ったもの」だと認めたうえで、それを規制するか否かを議論の対象にしている。

 

■地域に開かれた保育園

しかし、かんがえてみれば、それ自体がおかしなことではないだろうか。

 僕が問題にしたいのは、「こどもの声がうるさい」という苦情が出てしまう地域社会の在りかたを、もう一度かんがえなおした方が良いのではないか、ということだ。
 ドイツでは、保育園の騒音に対するクレームが非常に多いらしく、防音壁を作ったり、損害賠償請求がなされたりすることが絶えなかった。
 しかし2011年5月、ドイツの連邦議会は「乳幼児・児童保育施設及び児童遊戯施設から発生する子どもの騒音への特権付与法」を可決し (ジュリスト1424号, 有斐閣, 87頁, 2011)、こどもによる騒音は法的に保護されることになった。
 そもそも前提として、保育園は地域に開かれるべきである。
 練馬区の小竹向原に、「まちの保育園」という施設がある。まちの保育園は、カフェやギャラリーも併設された、<地域に開かれた保育園> であり、街ぐるみでこどもを育てようというプロジェクトだ。「教育は教師や教室のものではなくて、社会や子どもの未来をつくるものなので、幸せな試みである」という、イタリア・レッジョエミリアの幼児教育の理念に基づいているらしい。
 保育園が地域に開かれていれば、近隣住民からの騒音の苦情は出ないことだろう。こどもの、あるいは保育士の顔が見えるような関係であるならば、多少の騒音は我慢できるからである。顔見知りであれば、クレームを付ける気にもならないし、そんな地域で犯罪を起こそうという気にもならない。保育園だけでなく、小中学校や大学、またコミュニティ・カフェやアートスペースを地域に開くことは、地域を温かく、平和にすることに結びつくのである。

 

■おたがいさま・おかげさまの社会

 地域コミュニティ再生の先にたどり着く社会、ほっこり村が作りたい社会は、そんな「おたがいさま・おかげさまの社会」だ。
 いまの都市社会には、圧倒的にコミュニケーションが不足している。これは僕が言うまでもないほど自明な事実である。
 都市社会におけるコミュニケーションの希薄化の背景には、1956年から20年ほど続いた高度経済成長に伴う地域住民の価値感の変化があると思われる。
 前回のブログ (マクドナルド化する社会 -合理性の未来についての断層) にも書いたが、高度経済成長期を経て、人びとは「効率性」「合理性」を指向するようになった。
 しかし、こどもの教育・成長や、人と人とのコミュニケーションは、効率性という指標を用いるだけでは捉えきることのできないものである。
 効率性という視点だけを持って保育園のこどもの声を聞くと、文句を言いたくなってしまうのも無理はない。しかし、効率性だけを指向した社会から、人とのつながりとか、自分の居場所となる共同体は、絶対に生まれない。結果的に不幸になるだけである。

 

■「正論」は批判できるか、非・論理性を指向できるか

 でも、「こどもの声が騒音なので規制しろ」というクレームは、論理が通っている故に、主張として受け容れられやすいことも事実だ。
 ひとつの例として、「聴覚過敏者のために、こどもが外で遊ぶのを規制しろ」という意見を上げてみる。
 これは <批判できない正論> である。論理は通っているし、聴覚過敏の方への配慮も必要である。だから簡単に受け容れられ、保育園は防音壁で囲まれる。
 しかし、こういった類の「正論」を受け容れつづけてきた結果が、現在の無縁社会ではないだろうか。少数派の主張する、筋の通った「正論」によって、地域のコミュニティは閉じて、コミュニケーションの機会は失われた。
 極端に言うと、地域コミュニティの再生は、こういった効率的・合理的な議論から、切り離されて行われるべきだと思う。
 我々は成熟社会にどのような思想を抱きかかえながら暮らしていけば良いのかといえば、合理的でないもの、非・論理的なもの、効率性という指標から逃げてきた小さな塊のようなものを、指向する必要があるような気がしてならないのだ。
 いわゆる「下り坂」時代においては、何を決めるにしたって、だれかが不利益を被らなければならない。
 社会保障を手厚くするとなれば、どこかで税収を増やさなければならないし、保育園をつくろうと思えば、そこから出る少しの騒音は分け合わなければならない。
 繰り返し述べているように、その非合理性を受容させる唯一の方法が、コミュニケーションなのだと思う。
 こどもを育てたことのある親にとって、こどもの声は騒音にならないらしい。外国人と接する機会の多い人にとって、在日の外国人は排除の対象にならない。地域の高齢者とコミュニティを通じて対話をすれば、高福祉高負担の政策も、高齢者との触れあいのない場合より、受容しやすいはずである。
 だから、異世代・異文化の集まる地域コミュニティを、そしてそこでのコミュニケーションから生まれる主観的な幸福感を、新しい豊かさの在りかたとして、再び構想しなければならないと思う。
2012-12-02 | Posted in 人文, 社会No Comments » 

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