脱・マクドナルド化論 −合理性の未来についての断想

■ マクドナルド化の4要素

 マクドナルド化(McDonaldization)ということばがある。1999年に造られたポップな流行語なので明確な定義はされていないが、「マクドナルドに象徴されるような形式合理化が、社会のあらゆる領域で進んでいることへの批判」という意味合いで使われている造語だ。
 マクドナルドは、利益をひたすら追求するため合理的システムによって世界各国に店舗を広げている。マクドナルドの合理的システムの前では、小さいころ見たマックのお姉さんは、単なる交換可能な労働力でしかない。小さいころ見たマックのお姉さんは、誰でもなれるのだ。マクドナルドのクルーは、ハンバーガーの製造ラインの一部として機能しているに過ぎないのである。
 『マクドナルド化した社会 -果てしなき合理化のゆくえ(The McDonaldization of Society)』を著したジョージ・リッツァは言う。
 マクドナルドは、消費者、従業員(クルー)、そしてフランチャイズ(FC)の経営者に、以下の4つの要素を与えている、と。
  • 効率性:マクドナルドは、空腹を満腹にするための方法を提供している。そのニーズが存在する故、従業員は極限まで効率的に働く。
  • 計算可能性:マクドナルドの料金や従業員の給与は、量・時間によって規定されている。食事の量が多ければ多いほど、値段は上がる。
  • 予測可能性:世界中、どこの世界に行っても、ハンバーガーの味、料金、クルーのサービスなどは均質的で、すべての体験は予測可能である。
  • 制御:マクドナルドのすべては合理化されたシステムによって制御されている。1列に並んで注文すること、選びにくいメニュー、座り心地の悪いイス。その全てが、マクドナルドが消費者に要請していること―早く食べてさっさと出て行け―に誘導されている。
 ただし、マクドナルド化問題の本質は、「これらのシステムが採用されていること」ではない。地元で80年やっている食堂だって、効率が悪く、何が出てくるかわからなければ、行きたいとは思わない。
 マクドナルドの問題は、この4要素を、消費者とのインターフェイスとも言えるサービスやコミュニケーションの領域まで拡大してしまった点にある。
 マクドナルド化された社会では、対話やふれ合いまでが効率化され、マニュアルによるコントロールが社会を覆った結果、我々消費者も、コントロールされたコミュニケーションを欲するようになってしまった。今では、店員との「無駄な」対話は、煩わしくすら感じてしまう。


■ マクドナルド化の利点・欠点

 僕は、マクドナルド化から脱却すべきであるとかんがえているが、マクドナルドの合理的なシステムにも利点があるということは、認めなくてはならない。
 18世紀後半の産業革命以降、大量生産・大量消費の時代には、「大統領も貧困街の住民も、同じ味のコカ・コーラを飲める時代が来る」という夢があった。現に、マクドナルドでは、人種やジェンダー、社会階級に関係なく、同一の低価格で、同一のハンバーガーを食べることができる。蛇口から水が出ない地域でも、マクドナルドのコーラがある。そんな時代になった。
 また、マクドナルドのハンバーガーやポテトに対する規格性は、安全な食が提供される優れた方法となった(生涯に渡って安全かどうかは別として)。
 上記の2点は、マクドナルド化のメリットとして挙げることができるだろう。

■ 脱・マクドナルド化へ

 しかし、僕は以下に記す2つの理由から、少なくとも成熟社会である日本は、脱・マクドナルド化を真剣に議論すべきであるとかんがえる。
      1. スロー・フードの復権
      2. 合理性の転換
 この2点について、これから書いていこうとおもう。
 念のため言っておくが、マクドナルドの店舗を潰せということではなく、マクドナルドに象徴される「ファースト」な思想やライフスタイルを変えるべき、という意味合いである。
①スロー・フードの復権
 マクドナルドの出現によって、それまで地域に根付いてきた商店や農家は、次々と飲み込まれるように消えていった。なぜ地域経済は崩壊したか。それは、「食」と「店」に対する消費者の意識変化があったためだと思われる。
 「食に対する意識の変化」は、簡潔に言うと、消費者が予測可能なもの、制御されたものを要求するようになったためである。「うまい・やすい・はやい」が食の価値となった。この変化によって、地域の手間のかかる食文化の多くは壊滅的な状況になり、このままだと更に衰退し続けることになるだろう。
 「店に対する意識の変化」は、要するに、店員と顔見知りであるか、という問題である。「八百屋さんと知り合いだから、コンビニやマクドナルドで食事を済ますのではなく、八百屋に行って野菜を買おう」というように消費者の意識が変化すると、その地域には持続可能な経済圏が生まれる。地域に顔見知りがいればいるほど、その地域では犯罪が起こりにくく、平和で安全である。
 以上の2点をまとめた概念が、「スロー・フード」である。スロー・フードとは、単に有機農法のオルガニックな野菜を食べることではない。社会学者の宮台真司氏はスロー・フードを「共同体自治」の問題であると言った。顔の見える範囲のコミュニティ・地域社会で毎日を暮らし、自立的な経済圏を形成すること。それが、スロー・フードの根幹的な理念である。
②合理性の転換
 マクドナルドは、限りなく合理化されたシステムを創り、それをフランチャイズという形で売ることによって、世界中に広まっていった。
 この経営戦略は、人間の合理性によって構築された現代社会にはうまく適合した。人間の合理性で創られた社会に、合理化されたシステムが迎合されるのは当然のことである。
 しかし、そのような欧米的なヒューマニズムから一歩離れて人間の合理性を見てみると、地球上には人間以外の合理性があるということに気付く。人間の合理性は、他の生物種の合理性でもなければ、自然の合理性でもないのだ。
 人類の経済や生産、消費活動が限界に達し、成熟社会を迎えた我々は、どのような論理や道徳、合理性を抱きかかえながら暮らしていくべきなのか。
 少なくとも、現在のマクドナルド的な合理性を採用し続けるのならば、我々に明るい未来は決して待っていないだろう。
 ひとりひとりが、急ぎすぎとも言える現代社会における時間の在りかたを、再考しなければならないとおもう。


■ 蛇足:マクドナルド化された教育と地域共同体について

 ジョージ・リッツァの提起は、ほっこり村の立場から見ても、非常に興味深いものだとおもう。
 蛇足になってしまうが、マクドナルド化の問題と関連して、ほっこり村の活動から言えることを、最後に書き記しておきたい。
 リッツァは、マクドナルド化という現象は、教育や医療など諸分野にも適用可能だとしている。
 教育の現場でのマクドナルド化ないし合理化は、管理教育という手法に落ち着いた。この世で最も統制・管理されている空間は、刑務所と学校である。管理教育では、効率的に全生徒を管理することを目標とする。出る杭は打たれるし、杭が出ないように予防しようとする。ささいな非行を許すことは大きな非行を許すことだ、と管理者である教師は主張する。ゼロ・トレランス(不寛容)方式である。この管理教育のゼロ・トレランス方式は、結果的にドロップアウトするこどもを増やすという排除型の教育となってしまった。
 公教育から排除されないためには、というか、公教育から排除されても従来通りの生活を送るためには、学校以外にも、地域のさまざまな共同体が多様に存在することが重要である。地域の共同体やコミュニティへの介入によって、こどもは「学校やクラスが世界のすべてではない」ことを理解する。学校でいじめられても、勉強ができなくても、自分の生きる場所は学校だけじゃない、と思えるのである。
 もちろん、地域の共同体は、こどもがいじめられた後のセーフティ・ネットになるだけでなく、こどもからシニアまで全世代が「ともに生きる世界」として、豊かな暮らしに欠かせないものであることは疑いない。
 しかし、マクドナルド化した社会のなかで、そのような温かみのある地域共同体は生まれるのか。
 生まれないはずだ。利己的な利益を追求することが最大多数の最大幸福を生みだすとされる資本主義社会は、共同体を封建的/封地的と捉え、それを押しつぶしたうえに成り立ったものだからだ。
 資本主義経済を前提とした都市の変化のスピードはどこまでも高速で、地域の文化や共同体が持続するスキマがない。絶えずリモデリング(再構築)されていく都市では、コミュニティが生みだされれるスピードより、それが淘汰されていくスピードの方が速いためである。
 しかし、そんな資本主義社会も、徐々に綻びを呈しはじめた。いまこそ、マクドナルド化や市場経済から切り離された、”ほっこり” できる “村” 的な存在が、成熟社会における新しいつながりの在りかたとして、どんなものよりも必要であるような気がしてならない。


■ さいごに

 ちょっと気になって、一気に文章を書き上げた。あろうことかマクドナルドで。マクドナルド化について改めてかんがえてみて、たぶんもうマクドナルドに来ることはないのだろうなと、少し切なくもなったのだった。人生最後のチーズ・バーガーを噛みしめながら。
2012-11-15 | Posted in 人文, 社会No Comments » 

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