健康格差の是正と新たな都市の構想に向けて/100歳の老人にとって希望とはなにか

 あれは2008年の夏だったから、僕が16歳のころだったと思う。
 北海道の、とある診療所の病室で、あと3ヶ月しか生きることのできない女性と出会った。
 彼女は来年で100歳だった。同時に、末期の癌でもあった。
 それでも彼女は、孫や家族とたくさんの会話をし、食べ物を美味しそうに食べ、昼下がりには診療所の周りを散歩した。

 

 それは当時の僕が想像する末期癌の患者の映像とはかけ離れていて、とても大きな衝撃を受けた。
 病気にかからないことよりも、病気になっても幸福な生活を送ることの方が重要であると、そのとき確信したのである。

 今後、全世界の人口増加は都市部で、ことに発展途上国の都市部に限局して起こると考えられている(Urban growth in developing countries: a review of current trends and a caution regarding existing forecasts, Cohen B., World Development, 2004)。

 

 2012年現在、世界の総人口のおよそ30%が都市部に居住しているが、この数値は世界的な規模で急激に増加し続けている。
 グローバル現象としての都市化にともなって諸課題が顕在化したことで、また同時に進行する世界規模での高齢化によっても、「健康」を都市政策の中心に位置付ける健康都市の構想が各国の急務となっていることは周知の通りである。

 

 国連の人間居住計画(国連ハビタット)がWHOと共同で報告したレポート『健康格差是正を目指して ―隠れた都市の姿―』では、都市の健康政策について、次のように提言されている。
 ”21世紀の健康づくりとは、疫学的解明や医療保険制度の改正よりも、<都市>に照準を定めた社会的な取り組みによって実現される”、と。

ここ数日、都市部の健康格差について、自分なりに調べたり、考えたりしていた。

 都市には、充実した医療・福祉や保険サービス、健康的な生活のための選択肢など、住民生活に恩恵をもたらす要素が常に機能している。
 しかし、その背後には、それと同じくらいのリスクが潜んでいる。それは生活習慣病や感染症の流行であったり、事故や傷害だったりする。
 都市には、健康のための機会と、健康を害するリスクが共存しているのである。

 

 とはいえど、農村部よりも都市部に暮らす人の方が社会福祉・保険医療サービスをよく利用し、ヘルス・リテラシーが高く、平均寿命が長いらしい(The State of the world’s cities 2006/2007, Nairobi, United Nations Human Settlements Program, 2006)。

 

 しかし、実際には、全世界の都市部では健康格差が拡大し続けている。日本でも、2012年に発表された健康日本21(21世紀における国民健康づくり運動)の項目に「健康格差の是正」が挙げられるなど、ようやく健康格差問題を解決しようという気運が高まってきた。

 

 なぜ今まで健康格差の問題はあまりフォーカスされなかったかを考えてみると、それは人間集団を対象にする既存の疫学の理論体系・学問モデルに問題があったように感じる。
 疫学・公衆衛生学的な分析手法を用いると、その特性上、都市内部に内在する健康格差をうまく捉えきることができないのではないか。
 疫学的アプローチでは都市人口の平均的な値を求める。ここでは最大値と最小値がデータに与える影響はけして多くない。
 そのため、平均から大きく逸脱した住民の実態を把握することができず、したがって彼らが直面している健康問題は、行政や自治体が既存の疫学的手法を用いている限り、データに大きく反映されることはないし、それを認識することもできないのである。
 そのような格差や貧困、社会的排除を抱え込んだまま都市が肥大化していくと、その発展が加速するにしたがって、健康格差が更に拡大していくことになる。

 

 だから、健康格差を解決するためには、地方自治体や行政機関が自らの領域の健康課題と規定因子を明確に把握することが重要である。
 例えばWHOが開発したUrbanHEARTや国連ハビタットが開発したUrbanInfo等のソフトウェアを用いて、都市部における健康の公正的な評価・分析を行ったうえで、地域に積極的に介入することが必要である。

 

 介入のアプローチは、①下層を上げる、②上層を下げる、③中間層含む全層の格差を是正する、という3つのパターンがあると思われる。
 各々の介入方法にはそれぞれ利点・欠点がある。どの介入方法を取るかは、その都市の健康に関する評価分析を行ったうえで慎重に策定する必要があるだろう。最悪の場合は全体主義や共産主義の引き金となり得るかもしれない。

 

 ただ、いずれのアプローチを取ったとしても、最終的な目的は、すべての人びとが健康で文化的な最低限度の生活を送れるようにすることである。

 健康格差の実際や、介入のアプローチの概要に少し触れたが、そもそも、なぜ健康格差は生じてしまうのだろうか。
 僕は、そこに人間の幸福とか、希望とか、生活の質が関係してくると考えている。

 

 なぜ健康格差は生じるか。その問いは、「人はなぜ健康になりたいか」という問いかけと少し似ている。
 人がなぜ健康になりたいかというと、「未来への希望」があるから、である。幸福で質の高い生活への希望があるから、人は健康に暮らしたいと願う。

 

 もし100歳の老人がいたとして、老人が孫や息子と会話したり、食事や散歩を楽しんだりという幸福でQOLの高い生活をしているのならば、あるいは将来そうなる希望が少しでもあるのならば、「健康になりたい」と思うことだろう。定期的に健康診断に出向くはずだ。
 しかし、家族も友人もいなくて、地域からも切り離された孤独な100歳の老人がいたら、恐らく彼は「健康になりたい」とは思わない。健診に行く必要性も見出せないと思う。

 

 健康格差の根本的な発生要因とは、前述のようなQOLへの「希望の格差」ではないか。
 健康が先にあって、QOLが向上するのではない。QOLが向上したとき、人は健康を主体的に獲得しに行くのである。
 QOLを維持・向上させること自体は、健康であることを要求しない。幸福な生活への “希望” が、人びとの健康意欲を高め、人びとを健診へと出向かせている。

 

 健康格差に対するアプローチとして妥当なのは、もちろん医療福祉の質向上もあるが、最終的には幸福づくり、QOLの向上に行き着くのではないかという気がしてならない。

 

 100歳の老人が明日への希望を持って暮らせる社会づくりこそ、本質的な健康づくりへのアプローチだと思う。健康は個人で増進することはできない。社会環境の整備と後押しが必要なのである。そう考えると、健康づくりは社会づくりである。

 

 疫学的な数値に依存するのではなく、また細胞・分子レベルに視点を埋没させるのでもなく、都市や共同体という階層のなかで、僕は健康をつくる社会づくりがしたい。
   思えば、これは16歳のころからの、僕の一貫した目標なのであった。
2012-10-26 | Posted in 社会, 自然科学No Comments » 

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