時間についての十二章 哲学における時間の問題, 内山節, 岩波書店, 2012.

去年の今ごろは、まだ鶴見ほっこり村を始めて間もなかった。この1年は、1人で村の作業や参加者集めに奔走せざるを得ない状況であったから、定期的なワークショップが終わった4月からは、随分と落ち着いて勉強することができているとおもう。活動を続けつつだと、どうしてもその単純な作業に気を取られてネガティブな気持ちになってしまう。1年間ずっと苦痛であった。

夏あたりを目処に、鶴見ほっこり村の報告書をまとめている。

参加者のデータやアンケートなんて取っていなかったから、客観的に活動を論じることはできないのだけれど、それでも、1年を通して得た手がかりや、共同体についての幾つかの発見をめぐって報告書を書くことは苦痛にかんじていない。


■「鶴見ほっこり村」という名称

ここでは、報告書に盛り込む予定のない1つの要素について書いていこうとおもう。

それは、「ほっこり村」という名称に関する話題であり、”現代の都市における時間” への問いかけでもある。

「ほっこり村」は、実際には20秒程度でかんがえた名前だ。

はじめは「超高齢社会における前・後期高齢者が地域のなかで生き活きと過ごす」ことを基本的な理念に挙げていたから、高齢者ウケする名称が良いとおもい、「ほっこり」と「村」をつなげた。

「村」という漠然とした全体図はあったものの、「ほっこり」という名称に深い意味はなく、選び抜いた末に辿り着いた名前でもない。


現代の都市における時間への問いかけ

「ほっこり」ということばに対する印象に変化が訪れたのは、今年の3月に、スターバックスでラテを注文したときのことである。

なぜだか知らないが、僕の頼んだラテの表面にはくまさんが描かれていた。

僕は、この「ほっこり」とする体験に、成熟社会における新たな「豊かさ」をかんじたのである。

その日、僕がスタバへ入ったのは、勉強をするためだった。

僕にとってスタバは机としての存在でしかなかったし、カフェインと机さえ与えられれば満足であった。

プラグマティズムな世界観に裏打ちされて効率化された僕とスタバとの関係は、内山節ではないが、知らぬ間に「縦軸の時間」*に一元化されていたのである。それは、論理的で、不可逆的で、直線的で、客観的に対象化することができる時間軸のことだ。

それまで僕は、当たり前のように、縦軸の時間のなかで暮らしていた。

しかしあのとき、くまさんがそこにいるという「ほっこり」的な体験をすることによって、「縦軸の時間」に一元化されて築かれた僕の価値感のなかに、「縦軸の時間 “とは別の”」時間軸が獲得されたのである。

産業革命以降の人類は、経済成長を中心的な関心事項とし、消費は美徳、持続可能な成長を基本的理念に据えて活動してきた。

 その成長プロセスは「縦軸の時間」への一元化に他ならないのであり、極めてシンプルで、ニュートン以降の近代合理主義科学が採用してきた共有項目であった。

 Twitterではタイムラインが一定の速度で流れていき、facebook上に構築される社会的ネットワークは複雑化していく。Twitterも、facebookも、縦軸の時間に基づいて設計されていることは言うまでもない。


■ほっこり主義を指向する

しかし、未曾有の大震災、地球規模での環境問題など、解決困難な諸問題が山積する今日において、縦軸の時間ではない、「ほっこりとした時間軸」を獲得するだけで、人は「豊かさ」をかんじることができるのではないか。

極限まで効率化された「現代の時間」を再考し、細部に埋没されたミクロの視点を、いま一度「豊かさとはなにか」という大きな階層まで拡大することが必要である。

時間の経過に伴って成長を重ねることが使命であるという意識を停止し、立ち止まって物事を深く合理的にかんがえ、社会構造・社会システムに関するグランド・デザインを創造することが必要だとおもう。

 「縦軸の時間」に束縛された人々にとって、「ほっこりとする時間」はときに苦痛にすらかんじることもあるかもしれないが、ほっこりとした時間軸を導入することによって、ほんとうに豊かな成熟社会のモデルが実現するんじゃないか。

いつもはインスタントコーヒーや缶コーヒーを飲む人が、手間かけてカプチーノを淹れる。そんなほっこり主義的な精神革命が、ゆくゆくは個人のQOLを、超高齢社会の地域社会を変えていくのではないか。そうおもう。

コンピュータをシャットダウンし、携帯電話の電源を落とし、カプチーノを淹れる。

困難な時代に立ち向かういまこそ、「ほっこり」的な一連の体験が重要なのであり、手間をかけて淹れたカプチーノの湯気の向こうには、縦軸の時間に支配されることのない、成熟した豊かな未来像が横たわっていることだろう。

あの日、あのくまさんは、勉強に追われていた私に対して、そのように語りかけていた気がしてならない。

2012-04-29 | Posted in 人文, 社会No Comments » 

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