口からはじめる不老の科学, 斎藤一郎, 日本評論社, 2009.

 著者の斎藤先生は、僕にとって病理学の先生であり、付属病院の病院長でもある。先生はアンチエイジング医学(anti-aging medicine)をご専門とされていて、僕は先日、iTunes Uで東大のジェロントロジー(Gerontology)という老年社会学にかんする講義(2008)を3年ぶりくらいに聴いていたため、その流れでたまたま自宅にあった『口からはじめる不老の科学』を読んだ。

 本書では、基礎的な医学/歯学知識を中心に、歯科からみたアンチエイジングの具体的方法を記しているが、そんなことをここに書いても意味がないので、「ほんとうにアンチエイジングは必要か」をテーマとして、超高齢社会における高齢者個人の在りかたや価値について、自分なりに再考してみたいとおもう。ちなみに、僕は斎藤先生が嫌いなわけではなく、苦手だった病理学/病理学実習も一発で通っている。


■サクセスフルエイジング(Successful Aging)の盲点
 現在、平均寿命の延伸にともない、後期高齢者数は急激な増加傾向にある。そのなかで、高齢者個人の「老い方」の問題が出てきており、「どのように老いるか」「いかに豊かに加齢していくか」をかんがえるサクセスフルエイジング(Successful Aging)やアクティブエイジング(Active Aging)の理念が欧米を中心にブームになったことは記憶に新しい。
 サクセスフルエイジングのブームにともなって、その基本的な価値観である「生産的な自立」がイデオロギー化し、高齢者が「老いる」ことをネガティブな現象として捉え、加齢から目を逸らしてしまった、という問題も出てきた。
 本書で主題とされているアンチエイジングのコンセプトも、「若さを維持して自立すること」をテーマとしており、「ネガティブな老い」に “抗う” ことで、サクセスフルな老後を送ろうという思想が根本には流れている。
 しかし、本来のサクセスフルエイジングの理念は、「いかにして老いるか」であり、アンチエイジングの主張する「いかにして老いに抗うか」とは、完全に正反対である。
 確かに、今日を生きる私たちにとって、「加齢」とはネガティブな現象として以外の捉え方はない。女性が美容に力を入れる気持ちは否定することができないし、若々しく在るための産業は無くならないだろう。アンチエイジング外来はあっても良いとおもう(現に鶴見大学歯学部付属病院にはその外来がある)。
 ただ、私は、「アンチエイジングしなければならない」という風潮に、高齢者の孤独死問題やQOL低下といった超高齢社会における社会問題の構造的欠陥があるような気がしてならない。
 「老いに抗う」世界観そのものが、今日の高齢者問題を誘発しているのではないか。アンチエイジングをするから、エイジング(加齢)が不幸になるという、やや逆説的だが、そんな構造があるとおもう。


■「自己産出の否定」としてのアンチエイジング医学
 時間軸に沿って必ず加齢はしていくが、頭のなかに存在する「いつまでも若々しくある自己」(あるいは「いつまでも若々しくあらなければならない自己」)と、実際の「医学的に老いていく自己」のあいだに齟齬が生まれ、後者の現実を「非自己」として排除する、そんな不幸な現実逃避を、アンチエイジング的な世界観は引きおこさせる。
 そもそも、加齢という現象は、本来「自己を産出する」営みであったはずだ。生まれてからは、歳を重ねていくなかで自我やアイデンティティが形成されていき、いくつ歳をとっても、加齢とは、「自己の価値を産出していく」行為であったはずである。
 自己を創出するといえば、生命体(厳密には細胞, 免疫系, 神経系)とは、オートポイエーシス(Autopoiesis, 自己産出)だ、という第三世代システム論的な理解がある。
 オートポイエーシスとは境界を産出することで自己を規定し、恒常性を維持する自律的なプロセスのことだが、加齢はそれと似ていて、歳を重ねるごとに、自己創出をし続けながら、自己同一性を維持し続ける、生命の持つオートノミーなシステムそのものだとおもう。
 そうかんがえると、アンチエイジングというのは「自己産出の否定」に他ならないのであり、「加齢により生まれる自己」を「非自己」とみなして排除する、自己免疫疾患のような病理であるとおもう。
 20歳の「自己」は、50歳には「非自己」であるのに、いつまでも20歳の「非自己」であろうとするのが、アンチエイジングである。
 その結果、自己/非自己の免疫システムは破綻し、「自己」が本来あるべき場所は「非自己」だらけになる。その状態は、動物の原理からかんがえても、生命論的世界観から見ても、極めて不自然であると感じずにはいられないのだ。


■「アンチ・アンチエイジング」の立場
 少し話が逸れるが、そもそも、日本の伝統的な宗教観、仏教的な思想においては、諸行無常の概念に示されているように、「死」とは自然の流れのなかに帰ることであった。
 しかし、明治時代に西洋主義的な思想が日本に流入してきたなかで、そのエイジングの哲学は失われ、「アンチエイジング」のコンセプトが隅々まで行き渡ることになった。
 2012年を生きる私たちにとって、「死」とは、全てがゼロになることを意味する。無意識的であるものの、それは完全に西洋主義的な考え方で、本来的な日本文化においける「死」とは正反対の世界観である。
 というのも、仏教とは、自ら進んでゼロ、すなわち「無」に近付こうとする思想を持っている。仏教思想では、何かを失い続けて「ゼロ」になるのではなく、主体的に何かを削って「ゼロ」に近付けようとする。
 その思想は、日本文化や共同体の論理に深く根付いていて、だからこそ日本の地域共同体は死者を含んでいる。物や人間が死んで「ゼロ」になったあとも、それが自然や共同体、地域の一部として生き続けると信じている。だから、従来の日本文化においては、老いに抗う意味など一切無かったのである。
 超高齢社会に山積する諸問題には、その思想が欠落している。アンチエイジング医学の発展なんかよりも、日本的な仏教観を世界が共有すべきではないか。
 いま、ほんとうに議論すべきは、「どうすれば老化、あるいは超高齢社会に抗うことができるか」という西洋主義的な対症療法ではなく、「いかにして老いるか、どのような創造的福祉社会を形成していくか」であるとおもう。
 いくら少子高齢化が問題だからといって、「だったら子どもを産ませよう」「はい子ども手当」という対症療法的な政策を推進しているようでは、病理学的には深刻な末期状態にあると言っても差し支えないだろう。
 加齢を「ネガティブな退化」ではなく、「ポジティブな発展」として解釈する、 「 “アンチ”・アンチエイジング” 」といえるような世界の見方が、21世紀の豊かな地域社会を創造する。
 そして、その思想は、従来の日本の仏教観や共同体の論理に深く根付いてきたため、超高齢社会のトップランナーとして、その理念を世界に向けて発信していかねばならないとかんじる。
 個人がアンチエイジングを目的としている限り、超高齢社会とは、暗くどんよりとしたネガティブな社会を表すことばになることだろう。
 「超高齢社会」を「健康長寿社会」の明るく豊かなイメージに転換するためには、高齢者個人のレベルで、加齢を “ポジティブな発展” として捉えなおす作業が必要なのではなかろうか。


■おわりに
 斜め読みした『口からはじめる不老の科学』という本であったが、単純にアンチエイジングの指南の書としてはおすすめできるとおもわれる。蛇足だが、斎藤先生が出ると言ったところはあまり出題されない傾向にあるので、新2年生は気を付けて欲しい。
2012-03-29 | Posted in 社会, 自然科学No Comments » 

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