芸術における言語、文化とか

武蔵野市立吉祥寺美術館で、草間弥生展に行ってきました。面白かった。感想かく。

アートなるものにそれほど強い衝動や関心があるわけでもないけど、草間彌生Yayoi Kusamaはだいすき。草間さんは、幼い頃から幻覚症状として、世界が水玉模様に見えていたそうである。それが直接、現在のアートとしての”水玉模様”に結び付いている。草間さんは、自分の実体験実経験からアートを創造してる。
私は高校二年の頃劇団に入っていた。高校二年で2回、舞台に立った。そのとき役に没入することの難しさ、すなわち他人(役)になり切り、そのコンテクストに没入し、他者として言動することは不可能だと、当たり前のことだがおもった。

相手の経験は、自分の経験ではない。自分の経験しか自分の経験にはならない。相手の経験について本質的に語ることは不可能であり、自分の経験のなかでしか私たちは語れない。誤謬があるけれど、要は自分にインプットされているものでなければアウトプットは不可能。八百屋に牛肉は無い。ましてや架空の人物である役柄になど、なれるはずがないから、その空白の部分を想像して、それに近い体験をして、演じるのが役者だと感じていた。
これは”臨床の知:Field Work Knowing”とも密接に関連している。言語を超えた、先述の演劇の例で言えば台詞を超えた、身体的な経験こそ表現に結び付くんじゃないか。言語の知よりも、臨床の知・身体の知の割合の方が大きいし、壮大だ。言語の知だけを見ていると認識が分断されちゃう気がして、見たくなくても風景を心に刻み込んだりしている。美しいものを、言語によってパターン化して、分断してしまうと、その美しさは途端に生を失い、つまらないものになっちゃうかもしれないじゃない。もちろん逆のこともあるわけで、言語によって何気ない風景が美しくなるといったことも。

数字だって同じ。数字で全てを表そうとするのはすごく傲慢だし、それこそ実体験を分断しちゃってる気がしてならない。福岡伸一が例として挙げていたけれど、人面魚は本当は人の顔などしていなくて、私たち人間の言語がイメージとして持っているパターン(目がここに二つ、鼻がここで…、みたいな)をその魚に無理矢理当てはめているだけで、ただの模様に、顔の模様のパターンを当てはめてしまうことで、人面魚に見える、というのも、何かが言語によってパターン化、分断されてしまう一例だとおもう。
そう考えると言語を使用する人間の”美しさ”なんてすごく傲慢なんじゃないかとおもうけれど、本当にその通りだとおもう。

美しさは人それぞれ多様だけど、写実的な絵を美しいとおもうのか、なんかよく分からない色を美しいとおもうのか、草間彌生の水玉を美しいとおもうのか、それを見て強迫観念にとらわれるのか、とか、その多様性の起源は、人間が持つ言語による認識のパターン化、分断に源流があるんじゃないか。どす黒い色をほとんど誰も美しいとおもわないのも、モナリザやべえ、って誰しもがおもうのも(おもったことないけど)、言語にはある程度の共通性があるからじゃないのかな。
だとしたら、人種ごとに、というか、使用言語ごとに”美しさ”が異なるはずだ。問題意識は広がります。色だって、確かめようがないけれど、人種ごとに認識が違う可能性もあるじゃないか。だって虹は、日本では7色として認識されているけれど、フランスでは4色かそこらで認識されている。日本人とフランス人が同じ虹を見たとき、日本人の方がフランス人よりも色が3色多く見えるってことでしょ。虹が7色ってのは納得いってないけど。ということは、日本人とフランス人の間での色の認識は根本的に異なるはず。
その認識に、各人のコンテクストが重なってくるんじゃないかな。どういう言語でどういう認識をするのかってのは、つまり虹の色を何種類の色として認識するようになるのかは、成長の過程で全て決定される。言語は遺伝的にはプログラミングされてなかったよね、ソシュールの恣意性も、言い換えて拡大解釈すれば、遺伝的に日本人でもアメリカで生まれ育てば英語をしゃべるようになるってことだとおもう。言語は環境で決まる。
だから、アートも、自分のコンテクストや経験のなかでしか生み出せないわけです。もし色や美しさが言語に全て由来する認識だったのなら、日本人は日本語という経験のなかでの芸術、色使いをするし、アメリカ人は基本的に英語という個人のコンテクスト、経験のなかで芸術を創造する。これは多くの言語を使えれば芸術的な視野が広がる、という話でもあるとおもうんだけど、一カ国語であっても、それが逆にそのアーティストの持つ個性、多様性を生み出す。よく日本的な美、とか言うけれど、それなんか端的な例だとおもう。言葉の美しさも、言語ごとに全然異なるし、その言語ごとの多様性は、その国の文化や風習を決定するほどの大きな要素として、言語がどっしりと座っているのだろう。ラッキー7って何だろう、虹?

化学の再試験が明後日。本試は39度の高熱だったため意識朦朧、40点。今回は受かるはず。最近物理生物も難解になりつつある。
あ、ついに昨日MacBook Airを購入。教科書みたいだと形容したけれど、教科書よりも薄いからNoteBookだ。薄い、軽い。キーボードは少し固め。前のMacBookよりも画面は大きく感じるが気のせいだろう。あ、EvernoteとGoogleCalの偉大さに気付きつつある。Google Chromeもなかなかで満足。FireFoxは猪飼のイメージが拭いきれなくて使いたくない。iphone4は表面のシール新調したら劇的に良くなった。薄汚れていたのも反応しなかったのもシールが原因だった。あと、加湿器購入、4980円、これも1時間以上悩んだ甲斐あり良好。よい。

2010-11-17 | Posted in No Comments » 

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