「驚くべき学びの世界展」子どもの演劇の教育的意義について/「価値観の多様性」の増幅

最近になり、ワタリウム美術館「驚くべき学びの世界展」に行ったり、SPT(世田谷パブリックシアター)の「地域と子ども」に参加したりと、演劇やワークショップ、もしくは”遊び”そのものの教育的意義をめぐって考える機会が多くあった。

そのある種”遊び”の教育とは、学校という統制された、最小の主権しか持つことの許されない現場とは異なる創造的現場で行われるべきものでなければならない。そもそも、既存の社会制度における中心的関心が「統制」である時点で、教育は教示的システムであるという認識を逃れられないから、構成主義的世界観に移行すべきって話も聞いたので、そのことについても触れたい。

それと、先日、区内の掲示板へのポスター掲載の用事で鶴見区役所に行った際に、「ほっこり村の隣にある国際交流ラウンジと連携して、12月のイベントで一緒に演劇をやってくれないか」と言われた。

まだ企画段階である上に僕は何も聞かされてないので詳細は不明だが、国際交流ラウンジとなると外国人の方々と演劇をやることになるのは自明なので、在日外国人の方々が演劇ワークショップに参加して舞台芸術を創る意義のようなものも含めて考えてみたい。実現すれば参加者集めの苦労と負担が緩和されると思われるので、実現して欲しい。というものの、21世紀における新しいライフスタイルを創造する、という理念で活動しているのだから、よく考えれば、国際的でない方が不自然か。

ただ、果たしてほっこり村は、そのような国際的な活動と支援のワークショップ・地域コミュニティとして機能するのか、という危惧も。

勿論、演劇やアートなどをはじめとするワークショップ自体の教育的意義は計り知れない深さはあるが、しかしなぜ演劇なのか、国際交流ラウンジとの共催で、なぜわざわざほっこり村の演劇をするのか問題に焦点を合わせ、国際交流ラウンジと共催する意義付けを、自分なりに書いてきたい。

「子どもにおける演劇の教育的意義」と「在日外国人が演劇ワークショップに介入する意義」をめぐって書いていくが、その前に前提を共有しておかねばならない。

人間は社会的な動物であり、関係性と環境のなかで生きている。そしてその関係性や環境から付加された「役割」のなかで「自己演技」をしながら生活をしている。役割とは「会社員」「学生」「父親」「友人」など。ここで重要なのは、一人の人格を規定するのは一種類の役割ではなく、複合的に絡み合った役割に規定されて人格が形成されている点。会社と自宅では性格が異なるのは自分が存在する環境によって役割を演じ分けているため。

岸田秀氏のように「人間は本能の壊れた動物である」とまではいかないが、人間は社会的な動物である以上、”演じることしかできない”のであり、従って「本当の自分」など存在し得ない。人間は関係性のなかで自己演技をしながら生きていく道しか残されていない。それは社会的な動物としての宿命であり、だからこそ社会が成立している。

関係ないが、高2の頃、「人間が自己演技から逃れることができるのか」「社会的動物である人間が”演じない”状態など起こり得るのか」という問題意識に基づいて、冬の埼玉の山奥に何も持たない生活を試みたことがあった。3時間程度で挫折したが「人間は自己演技から逃れることは不可能であり、社会的動物である」とその時点では結論付けた。実際そうなっていると思う。

抽象的なりにも前提を共有した所で、まず、子どもが演劇ワークショップに参加する際の教育的意義とは何か、という問題をめぐり考えてみる。

アートの創造的体験は、子どもの潜在的可能性を発見するのに非常に有用。常に受動的である姿勢が要求され、試験・知識至上主義の世界観に基づいて”統制”された既存の教育のシステムとはかけ離れた「アートの創造的体験」は、子どもの潜在的可能性を最大限に導き出すことになる。

鶴見ほっこり村は偶然「演劇」という芸術的手法のワークショップの形式を取っているため、今回は演劇を前提として論ずるが、ことに着目するのは「インプロ(即興劇)」。

インプロとは、舞台上の役者に役割(「八百屋」「宇宙人」「警察」など)と状況(「財布が落ちている」「宇宙人が襲ってきた」など)を与え、台詞を決めず、物語の到達地点も事前に決定せず、即興で演じて物語を演じてつくっていく、という表現手法である。

僕はこのインプロという手法の創造性と教育的重要性に注目すべきだと考えていて、それは、「主体性が創造的な宇宙を導くことを認識させるのに有効」という点と、「コミュニケーション能力の増進に有用」であると思うため。

具体的に書くと、インプロにおいて役者は、「統制されていない」状態(即ち台詞や物語が事前に決定されていない状態=決定された正解が無い状態)から、自らの主体性でもって物語を構築することができる。

主体的に役割を演じ、言葉を駆使し、物語を構築する努力をすることで、無限の可能性が生まれる。それは非常に創造的な体験だと思うし、「主体性でもって役割を演じ言葉を駆使する」ことは社会において要求される重要な能力じゃなかろうか。

主体性は非常に重要で、子どもは、主体性で自らの文脈を構築していくことができると実感することができる。つまり、主体的に頑張れば、文脈も物語も人生も変えることが可能である、と気付く。主体的に参加すれば、インプロの芝居は幾らでも変わるから、参加した子どもはその次の芝居でも、そして日常生活でも主体的に行動するようになる。

コミュニケーション能力の増進という点でも、インプロは非常に大きな意義を果たすと思われる。

台詞がある普通の演劇の本読みは、本質的に舞台上で他の役者とのコミュニケーションを取らなくとも成立してしまう。台詞と物語が決定されてるため、台詞を独り言のように読んでいるだけで物語は進行し、成立する。多くの観客には、あたかも役者同士がコミュニケーションを取っていると誤魔化すことは可能かもしれない。

ただ、地域コミュニティで行う演劇は観客に見せるためではなく教育的意義の比率が多いのだから、それでは全く意味はない。独り言の芝居でも声は大きくなり表情が豊かになるかもしれないが、それはほっこり村の目指す演劇ワークショップにとって本質ではない。

その点インプロは、前述のように主体性を持たなければ芝居すら成立しない表現手法であるため、演じる側は過酷ではあるものの、インプロで養うことができるコミュニケーション能力は過酷さ相応の深さがある。それは、台詞を言う役者に対しても、観客というベクトルに対してもコミュニケーションを向けているためだと思われる。インプロは自らの主体性で物語を創造できるのだから、成功すればもっとコミュニケーションをしたいと思えるようになる。この創造性。

また、人生の哲学やアイデンティティの確立においては「文化」が極めて大きな役割を果たしている。「文化」とは環境や関係性であり、人間は文化のなかでしか生きることができないため、岸田秀的表現で言うところの本能が壊れた。

子どもの文化的環境を整えることは子どもの成長に多大な影響を及ぼすらしい。では「文化的環境が整備されている状態」とはなにか。

それこそ地域の共同体やコミュニティへの介入だと思う。幼少期から地域や社会の共同体のなかで生きる。その地域に残る優秀な人材の養成にも結び付く。

しかし明治以降、日本の地域社会におけるコミュニティは一元化し、コミュニティの多様性が消失している。一元化されたコミュニティにおいては、内部の住民の価値基準の多様性も消失するため極めて危険。同調的行為により、ポジティブな方向へ全員が移行する可能性もあるがネガティブな行動に全員が流れる危険性もある。これからの地域社会には「価値観の多様化」が必要であり、一元化されたシステムは排除すべきだし、コミュニティの多様化・多層化が非常に重要な課題となってくると考えられる。

話題が逸れるが、アートのワークショップの地域コミュニティは、「価値観の多様化」を増幅する役割を担うことが可能であると思う。

既存の地域社会の共同体やコミュニティ(祭りや町内会、ボーイスカウトなど)は、内部の人間の「多様性を排除」するベクトルに力が作用する。つまり「この共同体に入るのであればこの基準を満たし、これは禁止事項である」という篩にかけ、その共同体においては個性を出しても村八分にされるだけであった。その共同体における価値観は均質だった。

しかし、演劇などのアートのワークショップ形式の地域コミュニティは、どちらかと言えば、「価値観の多様性」を増幅するベクトルに力が作用する。例えばほっこり村のような演劇ワークショップにおいては、参加者の多様性や個性が必ず必要であるし、ワークショップはその多様性を浮き彫りにする作業だと言ってもいい。

つまり、従来の地域社会の共同体が「同じ地域の住民同士で一致団結して一定の方向へ向かおう」という問いかけであったなら、アートのワークショップ形式の共同体は「同じ地域の住民同士だけども、これほどの個性の開きがあって多様性があるから、それを個別でもっと増幅していこう」という問いかけである。

だから、地域社会における「価値観の多様化」の増幅が地域のKeywordになっているのなら、それを増幅するためには、アートのワークショップ形式の共同体を多層化するしか方法はないのでは、と思う。地域密着型でそんな多くの種類のワークショップコミュニティが生まれたのなら、その地域における子どもや若者、大人の価値観は多様化していくはずである。それが地域住民における「成熟して多様な価値観」の創造を誘発するんじゃないか。

他にも、地域の子どもにおける演劇やアート、ワークショップ介入の教育的意義は挙げられて、死に対する教育とか幾らでもあると思われるが、それを取り上げていくとキリがないため、ここで子ども編は終わる。

では、在日外国人において、ほっこり村などの演劇ワークショップへの介入はどんな影響を与えるのか。ここでは、実際に企画の話が出ているため、ほっこり村に限定して話を進めていこうと思う。

まず前提で書いたように、演劇における演技によって自己の役割演技の複合性を認識でき、他者を演じることで異文化を受容しながら日本の文化のなかで生きることを円滑にできる。

2点目は単純に考えて日本語の獲得を促進するだろうということで、言語と文化は密接に切り離せない関係なのだから、日本文化で生きる上で日本語を習得するのは大前提であるから日本語教育的な意義もあると思う、ということ。

3点目も単純に地域社会のなかでの実際の社会的ネットワークを形成することが可能だ、という点。この点はほっこり村の本来の理念であるが、在日外国人が地域社会のなかで社会的ネットワークを形成するのを触媒できる、という点が挙げられる。

演劇は少し違うかもしれないが、ダンスや歌は世界共通の言語であり、世界の何処の人種であっても共鳴することが可能であるし、共鳴したがっている。そういったワークショップがあれば、ダンスや歌という世界共通言語での共鳴と社会的ネットワークの形成が可能になる。

次に、私はこれが最大の利点だと思っているが、21世紀のグローバル社会、地域社会の「価値観の多様化」を目指す上で、演劇ワークショップが非常に有用であろうということ。

先述したが「地域のおける住民の価値観は多様である」ことを地域住民に認識させる、つまり既存の「個性を排除する」システムから「個性を増幅させる」システムに移行することにおいて演劇ワークショップは有効な手段である。その地域で生まれ育った日本人も参加して、アメリカ人やアジア人も、子どもも、高齢者も、障害者も参加する。そのコミュニティ内での多様性を維持して増幅しながら、そんなコミュニティを多層化・多様化する。

そういった「地域のなかで、地域住民の価値観の多様性」を増幅させることがこれからの地域の課題になると考えられるため、その点で、演劇ワークショップは大きな役割を果たすのではないかなあ、と思う。

その点で、国際交流ラウンジとの共催のワークショップは非常に魅力的であると同時に、これからの日本の地域社会モデルを構築する上で非常に有効なんじゃないか、と私は考える。

2011-08-09 | Posted in No Comments » 

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