Field Work Knowing、臨床の知

動的プロセスの認識。生命は静的な構造ではなく動的な機能、動的なプロセス。生命論パラダイムにおいて、事象や現場を動的に認識することは必要不可欠。動的プロセスは何処に存在するのか、といえば、MacBookのピクセルのなかにも、教科書にこと細かに書かれた説明文にも無い。それは、現場にしかない。別に格好良く言ってるわけじゃなくて、まあ当たり前のことだけど。

以前、新宿の劇場タイニイアリスで、10トン以上の砂を地下の劇場に運び入れる作業をした。地下の劇場を一面砂まみれにし、演劇の公演をしていた。夏場であったから、汗まみれになりながらも、砂を敷き詰め、セットが完成した。

でき上がったセットについて、何も知らない観客は感動しないかもしれないけど、僕はその砂のなかに染み込んだ汗と涙を、一部でも共有した。だからセットが完成したときには感動が生まれた。現場を実体験しなければ分からない感情、感動があると実感したんですねそのとき。身体の痕跡とは、まさにこのことを示すんだろなっていう実感。例えば、僕の生命論パラダイムというお気に入りの書籍には、感動して震えながら書いた肉筆の文章も、深夜にこぼしたコーヒーの染みも刻み込まれている。その一冊の書籍は僕にとってかけがえのない一冊だけど、端から見たらただの薄汚れた本。だけども、僕にとってはそのコーヒーの染みは大きな意義を持つ。一緒に自分なりの学びを進めてきた痕跡があるっていう意味で。

そこで創り上げたもの、自分の手を介して築かれた痕跡。そこには、それがどういった形であれ、自分の身体の痕跡が刻み込まれます。

共に創った競創者がいたとしても、自分のコンテクストのなかの、自分だけの痕跡がある。このプロセスには、それを創り上げていくプロセスのなかで、自分の言葉で再構築され続ける作業がなされるのだとおもう。すなわち、フィールドを実際に自分の身体で体感する=Field Workをすることで、現場を生きたプロセス、動的なプロセスとして認識し、生きた知識=臨床の知=Field Work Knowingが習得できるのだとおもう。

それはひとえに、現場を自分の言葉で再構築することによって生まれる知性じゃないか。R・ヴィトゲンシュタインは「論理哲学論考」において「哲学は、語られ得るものを明らかに叙述することによって、語られ得ぬものを意味することがある」と論じています。要は、暗黙知、体得、臨床の知です。マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』面白いです。知のパラダイムの拡大。美しい景色は言語化することができないし、数値化することも不可能。

そもそもこりゃ当たり前のことでした。野球は本を読んだって上手くならない。実践しなきゃである。どんな文脈のなかでも、実践、Field Workすることで、自分の言葉でそれは書き換えられ、自分なりの理解が構築される。とにかく、実践すること、自分の頭脳と身体を最大限に駆使して言語認識を更新することが重要なんです。大学は生物化学物理英語ばかりだけれど、実践する必要がある、何か実践していないと何も言えないな、と考え誕生したのがほっこりいずむであると言っても過言じゃない。

ともかく、生物でも医学でも何でもいいけれど、自分なりの理解を作るためには、自分の言葉で再構築する作業が必要不可欠なんだ、ということを書きたかったが、完全にField Workの話になっちゃった。自分の言葉で再構築する一つの手段として、実践、生きた現場で体感することの意義があるようにおもう。

MacBook Air 13インチ、明日か明後日に購入予定。この悩んで、買う直前の期間が最も楽しいね。 著しいQOLの向上。

2010-11-15 | Posted in No Comments » 

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