「見えるもの」と「見えなくなってしまうもの」

何事においてもそうだと思うんだけれど、物事を確定するという行為には、確定した項目以外を思考から排除し、確定した要素以外の部分へ思考がまわらなくなる、という危険性を孕んでいる。

生物学の阿部先生のブログをRSS登録しているんだけれど、今日の記事を読んでそうかんじました。

「原発反対、戦争反対、というのは容易に思考停止してしまう小道具なので、自我のかよわい人は手にしない方がいいのではないかなあ。」

つまり、「戦争は悪だ」「原発は廃止した方が良い」という思考停止。常識、即ち「論理的に説明可能であること」による束縛。ちょっと乱暴だとおもうけれど、分かりやすいことは眉唾、とおっしゃっていた。

要素還元主義的世界観に依存しすぎると、自分が「大事だ」「本質だ」と確定した部分以外の広がりを排除してしまうという危険性がある。

「大事だ」と物事を確定してしまった場合、その「大事な部分」以外の広がりを見失ってしまうわけだけれど、ここで問題なのは、「重要」「重要ではない」を決定する判断基準は、対象を全包括的に分析する以前の認識レベルにしか依存していないという点。だから、つまり、本当は重要なのに、それを「重要でない」と確定して棄却してしまっている可能性を考慮できないか、ということ。

例えばフロンガスだって、のちにオゾン層の破壊に作用していることがわかったのに、当初の認識レベルでは、フロンガスによる環境破壊は「重要でない」と確定され、認識から棄却されていた。だからあんなに大問題になった。

一度仮説や視点が確定されてしまったら、それを総合して完璧に要素還元できたよ、という幻想が生じる。だから危険。と生命論パラダイム。だから要素還元主義、もしくは高度専門化から脱却して、新しい総合を構築する必要があるんじゃないか。

超高齢社会なんかその極端な例だとおもいます。ほっこり村がやっているのは「超高齢社会における理想的な医療福祉モデルの構築」という大問題だけど、そんなの一人の歯学部生でできる活動ではなくて、様々な領域の人とディスカッションして、一つの総合を自分のなかで構築して、議論を重ねてやっとcheapなモデルが完成するくらいのものだとおもう。

要は、専門から脱却すること。専門を確定しないこと。これから僕は歯科医学を学んでいくけど、全包括的視点は絶対に必要。確定したら終わり。未来だって不確定なんだから、確定せずに、好ましいゆらぎを生じさせる主体的努力が最重要。

だから何でも学んでいきたいんだけれど、留年という強迫観念が僕に過去問対策を強要する。「個力が集う」とか呑気なこと言ってる前になんとかしなさいよ、試験至上主義のこの頭悪いシステム。

見えるものと見えないもの。視点を設定しなければ、たとえそれが実際にそこらへんに存在していたとしても、目に入らないことすらある。組織学の顕微鏡実習が良い例。node of Ranvierなんて、その知識が無ければ絶対に見えないのに、「ここらへんにランビエこーりんあるそうだよ」という知識があれば、それが見えるような気がしてくる。知識があると、視界が変わる。そんな体験はしていないようでものすごくしているわけで、自分の考え方や思考回路が変われば世界が変わって見えるというのと同じで。

僕の人生を変えたような書籍がありまして、日本総合研究所編の「生命論パラダイムの時代」という本なんだけれど、高校時代に共同研究室の掃除をしていて発見して、拝借して、1行読み進めるたびに自分の見る世界が変わっていく体験をした。それはすごく衝撃的な体験で、手が震えるような体験。

とにかく、人間は母国語のバイアスを介してしか世界認識ができないのだから、全ての認識は言語に依存しているわけであり、だから視点を設定しなければ、実在するものも認識できないんじゃないか、とこういうことです。

だって「虹は7色だ」という知識が無けりゃ、虹なんて連続的な色の変化なんだから、7色になんて見えないでしょ。フランスの色の概念に認識が依存しているフランス人の目には、虹は4色に見える。バッサ語とかなんだか聴いたことも無いような言語に至っては2色。つまり、世界認識は言語に依存してる。

だから僕らは視点を設定する必要があるし、常に問題意識を抱き続けて主体的に学んでいく必要がある。だから問題意識は重要だ、と高校で言われ続けてきたのだとおもう。視点は大事。

話題違いますが、興奮生の生理学が面白すぎる。皆分かりにくいと言っていたんだけれど、すごく分かりやすく教えてくれるし、何より非常に面白い。来週楽しみです。

明日は地獄の組織学実習顕微鏡。先週は19時まで残った。しかもそんなにクオリティーは高くない。今週は効率重視。

2011-05-11 | Posted in No Comments » 

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