研究会

鈴木先生の研究会に昨日行ってきたので、その振り返り。研究誌が7月に出版されるらしいです。僕も書いてます。以下。

今回の3.11について、すでに幾つかの雑誌に寄稿している。『正論』『三田評論』『文芸春秋』。

石原都知事が、今回の震災のことを「天罰」と言った。この発言は政治家としては問題があるが、前から言っていたように、地震はともかく原発の問題は紛れもなく「人災」である。だから石原都知事が「天罰」と言った気持ちは分かる。

今回の地震の震度、余震は、科学的には想定外、予測不可能だったかもしれない。それはともかく、原発の問題は、人類が間違った方向に進んでいるから生じた問題。「原子力」で電力をまかなう、という人類の選択を再考した方がいいのかもしれない。未来の最後まで見通しを立てて、そこから現在のプランを策定していく必要がある。

戦後は電力も、食料も無かった。しかし、人々がそんな環境のなかで夜な夜な泣いていたかというと、全然そうでもなく、豊かだった。助け合い、最低限の電力と食料で生きていた。

しかし、3.11震災後の東京を見るとどうだろう。震源地が東京でないにも関わらず、東京は大混乱に陥った。そもそもの人類の目指す方向、社会死すyテムがおかしいと言わざるを得ない。工場も、効率を最も優先して、世界のあちこちに工場を建てた結果、東北地方の工場がつぶれたら世界各地の工場もストップせざるを得なくなってしまった。

地球の末路は、何十億年も後かと思っていたら、意外に近い。現在、人類は分岐点に立たされている。追い込まれてしまっている。人類万能主義は、自分が人類であるという、手前味噌に過ぎない。

人類が宇宙に行ったことで、人類の発達を喜ぶ裏側で、人類は自分達の限界を知った。このまま文明の発達を突き進む危険性、そしてその限界。今、環境問題としてやっているのは、人類の存続の限界の先延ばしに過ぎない。

人類自身のメルトダウンが起きている。人類は生物、あるいは動物としての生き方を逸脱してしまった。本能が壊れた。言語を獲得した。教育が必要になった。人間は自立するまでに20年弱の年月が必要であり、これは動物の生き方を逸脱している。教育されないと人間は成長することができない。

しかし、その教育自体も難しくなりつつある。現代のコンピュータなどの入れ替わりの速度では、高齢者はとても追いつけない。つまり、孫の方が知っている。これまで大人や高齢者が孫に教育していた智慧が、孫に伝わらなくなっている。つまり、人間には必須である長い年月をかけた教育が、成立しなくなってしまった。人間は、種としてのメルトダウンの時期を迎えつつある。

大震災から教訓を拾うとするなら、人類の方向を再考する時期に差し掛かったということ。2000万年前、農業牧畜革命により、人類のライフスタイルは抜本的に変革した。つまり、人間が圧倒的に環境に対して影響を与えるようになった。森林破壊を人類が起こしはじめ、その対価として文明の発達を手に入れた。森林破壊と文明発達はトレードオフの関係にある。

しかし、日本の江戸時代のライフスタイルを見てみると、素晴らしい。持続可能的であり、森林を破壊しない。そういった、日本の江戸時代のようなライフスタイルが、未来の人類の大きな指針になるのではなかろうか。

東電が悪いとか、「天罰」とか言うなとか、そういった政治の目先の問題ではなく、人類の進む道の問題。人類の進むべき方向を、再考する必要がある。

つまり、「豊かさのレベル」を再考する。これからの時代における豊かさとはなにか。生活のレベルを下げれば、即ち必要最低限の生活まで消費レベルを下げることができれば、人類のライフスタイルは再構築が可能。そういった点において、高齢者のアドバイスから学ぶのは有用だと思う。

自販機だって、治安の問題で、設置できるのは日本くらい。日本じゃなきゃ自販機は成立しない。外国では機械ごと持ってかれてしまう。日本は特殊な治安の良さであって、ある種特殊な豊かさを持っていたといえる。だから、日本発の、世界最初の豊かさを創出し、新しい生活の愉しさを発見した方がいい。パラダイムシフト。

9.11はアメリカの分岐点であった。3.11が日本の、世界の分岐点となる。

話題変わって、『日本語と外国語』について。日本のヨーロッパ中心主義。日本は「外国の方が良い」と外国の学問や文化を崇拝しているから、日本古来の文化を根本的に、いとも簡単に変えてしまった。そんなことするのは日本くらい。

ただ、日本人が寛容なのは、「外国文化」に対してのみ。「外国人」に対しては、異常なほど不寛容的。打ち解けない。風物や思想の点ではすぐ外国を真似するのに、外国人は家にも入れない。外国人を崇拝しているから、外人が、ろくに日本語も使えないのに日本に住む。日本文化も知らない、日本のルールも知らないのに、日本に平気で滞在する。これはおかしい。外国が中心だという世界観から脱するべき。

そもそも、日本人の学者の学問が、翻訳から全て始まっていること自体が異常。自然科学はまた別の話。人文科学は学問じゃない。自然科学は人類が誕生する前からあった現象を解明するが、人文科学は人間がいなけりゃ何もない。

日本語の特殊性。日本以外の5999種類くらいの外国語は、ラジオ型。日本語は、テレビ型。つまり、音が乏しい。「むえいとう」と音で聞いても何がなんだかわからないのに、「無影灯」と聞けば、たとえその単語が初めて聞いた単語であったにしても、「影が出ない照明なんだ」と理解できる。これは素晴らしい感じの特徴で、英語なんかでは難しい言葉を一般人が見ても全然誰もわからないのに、日本人が例えば「無影灯」と見れば大抵の一般人は理解できる。外国語はラジオ型で音に依存しているため、パッと似ただけでは容易に理解できない。

しかし、日本人はヨーロッパ中心主義だから、「漢字を使うことは遅れている証拠だ」と言ってしまう。日本が高度経済成長できたのは、漢字のおかげでもあるほど。漢字に対する日本人の偏見を取り除くべき。

日本語、ことに漢字は優れた言語。中国の思想も混ざっている。日本語を世界に広める日本語教になる。

日本語の抽象性。日本語は漢字によって意味を分けている。日本語は抽象的。しかし、中国語で「持つ」という単語は、どのように持つか、などによって20種類に分けられている。英語も具体的な言語。この抽象性と具体性の由来は何なのか。また、抽象的言語と具体的言語のどちらが言語獲得が容易になるのか。

日本語の「なく」は「泣く」「鳴く」。漢字に依存していて、テレビ型。言語獲得という点では、抽象性のある方が容易だと思う。

戦後における漢字改革。簡体化。蟲→虫。文部科学省が言葉の能力を「読む、書く、分かる(?)」と言って教育に取り込んでいるが、これは全くの嘘。小学一年生で習う最初の漢字は、「一」。でも、子どもにとって「一」が一番難しい。「一」より「鶴」のが、小学一年生にとって簡単。3歳児が漢字800時を覚えたという研究もある。

なぜかと言うと、一は極めて抽象的な概念だから。「鶴」や「象」は、特定の動物のイメージと対応させて覚えることができる。子どもの心を引き付けるから、覚える。書けるようにはならないが、見てわかる。一や、あと抽象概念で言えば「鶴」より「鳥」の方が難しい、「動物」の方がより難しい。でも、文科省は「一」だとか「鳥」から教育していく。これはおかしい。

話題変わる。カタカナをアルファベットにすればどうか。日本語は、明治と現在だと比較できないほど変化している。日本語は変わる。パーフェクトマンションなんてマンションなんか、外国に手紙書くときに恥ずかしくてならない。今あるカタカナの表記をアルファベットにする案は、非常に可能性があると思う。

漫画。日本の文化である漫画は、絵巻の影響を受けている。日本の文学でもポルノでも良いけど、それは全て重層的。なんか着物来ていたり、影から坊主が覗いていたりなどの点で非常に重層的。重層的という点で、欧米とは根本的に相違する。だから、漫画の重層性は海外文化に新しいジャンルとして受け容れられたのではないか。

漫画の擬音。日本語は擬音の多い言語。外国語の場合は、犬や鳩の鳴き方など、単語自体に擬音が組み込まれていることが多い。そういった点でも、日本語は、世界に売り出せるほど面白い言語。だからヨーロッパ中心主義を脱するべきだと思う。

以上。下の写真は昨年秋の研究会で撮ったもの。 

2011-04-24 | Posted in No Comments » 

関連記事