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人間は言語によってしか世界認識をすることができない。人間の世界に対する認識は母国語に完全に依存せざるを得ない。

よく言う例が、虹の認識の言語ごとの相違について。虹は連続的に色が変化していて、実際にはどこからが赤でここから青、という線引きは不可能。でも人間は言語によって世界を捉えていて、その「色を表すことば」が存在する以上、虹の連続的な色の変化は所々で分割されて認識される。言語で色を認識するのだから、言語ごとに色の概念と定義が異なって、実際に認識される色も異なって当然。日本語の単語と英語の単語が一対一対応ではないように、言語にはおおまかな共通性しかない。

虹は7色、という常識は日本語を操る日本人のなかでは非常に当然の認識なんだけれど、米国では6色。フランスでは確か4色。バッサ語という言語に至っては2色で認識されている。あの連続的な色の変化が2色で認識されるというのは少し考えにくいのだけれど、でも本当に人間の認識は言語に依存しているとおもう。

本題に入ると、匂いも言語ごとに相違するはず。文化ごとに、といった方が早いかもしれないけど、ともかく僕の感じている匂いと熱帯陸の奥深くに住んでいる人々の匂いの感覚は、虹の例から考えていくと異なるはず、確かめようが無いけど。

「くさい」という単語がまとめてしまう動的な構造を孕んだ世界は無数。生ゴミの匂いも銀杏の匂いも全て「くさい」という単語で認識されてしまうと、生ゴミと銀杏の匂いの記憶は、僕たちの脳内には、大雑把に言えば同じ匂いとして記憶されるんじゃないか。もちろんガソリンスタンドの「くさい」と銀杏の「くさい」は明確に記憶のなかで線引きされているんだけれど、生ゴミと銀杏の匂いの微妙な相違は、「くさい」の一言でまとめてしまったら消えて無くなってしまうほどの違いだから、「くさい」という言葉でまとめてしまうことによる世界認識の分割は、生ゴミと銀杏のあいだにある匂いを全て記憶から消去してしまう。

10時12分30秒と10時12分31秒のあいだには無限の時間がある。それは本来「1秒」という単位のなかで分割されるべきものではないのかもしれないし、でも分割しなけりゃ不便。ただ明確なのは、30秒と31秒のあいだに存在する無限の時間の広がりを、「1秒」という言葉をあてがうことによって消失させている、ということ。「30秒」であるか「31秒」であるかは僕にとってはどうでもいいからその一秒のあいだにある時間なんて目に入らないし、見ることができない。視点を設けなければその対象は目に入らないんじゃないか。逆に、視点や問題意識、仮説を持っていると、実在しない対象も見えてしまう。Leeuwenhoekが単式顕微鏡で精子のなかにホムンクルスを誤って見出してしまったように、仮説立てると事実の認識も変化してく。

匂いの例で言うと、生ゴミの「くさい」と銀杏の「くさい」の違いなんて僕にとってどうでもいい相違で、そこで重要なのは「くさい」という感覚自体。だから僕には生ゴミと銀杏の匂いの区別を今ここで説明しろと言われても無理。

そういえば、なぜ匂いは思い出せないのか。記憶できないのか。匂いを嗅いだ10秒後、その匂いを的確にことばで表現しようとしても不可能。厳密に思い出すこともできない。だからこそ「くさい」という一言で全部まとめちゃうのかもしれないけど、人間の世界認識は言語に依存しているから、言語によって記述することができない対象は認識できないはずじゃないのか。虹の色と色の間に存在する多くの色を表す言葉がないからその色が認識できないのと同様に、匂いを表す言葉が無ければ匂いは認識できないんじゃないのか。なぜ人間は匂いを認識することができるのか。

わからないので話を変えると、逆に、言語のなかだけで確かに存在している対象もある。神とか。実際に存在していないけれど、信じる人の認識のなかには確実な手触りを含んで存在している。この場合は別に現実世界に存在している事実自体は重要ではなくて、信じる人と神という関係性のなかで確実に神は存在している、ということになるのでしょうか。

あとは、近年日本語の崩壊が取り沙汰されているけれど、この問題の本質は若者が敬語を使えないことではなく、もちろん年寄りの僻みでもなく、「ヤバい」という一言によってまとめられてしまう日本の文化的特殊性、世界の文化的多様性が消失する危険性なのだとおもう。

「ヤバい」という言葉は、どんな状況においても使用可能。虹が綺麗な状況でも、銀杏が臭い状況でも、時間が無い状況でも使用できる。つまり、あらゆる状況において「ヤバい」という言葉でまとめて認識してしまうことで、ワカモノの世界認識の多様性が消失しつつあることが本質的な問題なんじゃないか。「ヤバい」を皆使用するけれだ、どんな状況下においても「ヤバい」と形容することで、日本の現在のワカモノの世界認識が均一化されてしまう危険性。

で、言葉の多様性の消失が何を示しているのかと言うと、言葉と文化は密接に関連しているわけだから、それは即ち文化的多様性の消失を表す。

多様性を消失した先には絶滅が待ち構えていて、それは均一だから何か小さな刺激があると全部死んでしまう。多様性が維持されている場合は、小さな刺激があろうとも2〜3匹死ぬだけで済む。ものすごい時間とコストをかけてまで有性生殖をする意味って、遺伝的多様性の創出に他ならない。何が言いたいかって、言語の、ひいては文化的な多様性の維持は結果的に人類全体が絶滅する可能性を最小限に減少させることに結び付くから、「ヤバい」だけではなくて、様々なボキャブラリーを持って世界を認識しましょうということ。

だから鶴見みたいなBF大学だと、みんなヤバいヤバいうるさいから日本語の言語教育が不可欠なんだけど、何を勘違いしたのか大学では敬語の使い方とか、あるいはレ行変格活用とか、やる方も本当に意味があるとおもってやってるのか甚だ怪しいんだけれど、付属高校の国語教師を呼んで1限だけやった。

でも本質的に必要な言語教育はそんな表面的な言語能力ではなくて、言語によって動的な世界を深く認識する洞察力であり、その認識を再構築し続けながら仮説立てて考える論理じゃないのか。というか言語って、もしくは学問の本来の姿ってそういうものなんじゃなかったか。

でも結局最終的には、世界認識の手法としての言語能力を養うというか、視点と問題意識を持って世界認識すれば「ヤバい」なんて言わなくなるんじゃないか、もっと厳密な言葉で、複雑な世界を高次元で認識できるんじゃないか、とおもうということです。

別に僕はそんな高尚な学習などできていないけど、いややる気はあるんだけれど、でもそれが本質的な学びだとおもうし、何よりも強く願うのは、鶴大歯学部が日本の歯学教育システムに付随する試験至上主義的教育から脱却すること、それだけだとおもいます。

iPad2はまだか

2011-04-16 | Posted in No Comments » 

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