I will start a revolution from my bed.

最近、夕方(17〜19時)と深夜(3〜5時)の時間帯で思考が究極に活性化されているので、朝まで頑張って昼の12時に起床するという良いのか悪いのかわからないような生活リズムが成立しつつあります。

昨日は広報よこはま(地域の新聞的な)の鶴見区版に電話しました。でも区の共催でないと掲載不可能と教務課みたいなことを言われたので諦め、最後にタウンニュースの鶴見区版に電話。まあ広告の値段でも聞いて考えようと思っていたのですが、4日に取材していただけるとのことでした。4日もう大学はじまってるんじゃないかという危惧もありますが、まあ入学式中止だし大丈夫なはずです。タウンニュースの方は14日に発表らしいので、もし開催が24日だったら10日間か。5月へのずれ込みも検討した方が良いかも。

それで、昨日の深夜MIT石井教授の昨年デジハリで行われた講演を再視聴していました。何度聴いても感動する講演。戦慄。何を思ったかというと、もっとほっこりプロジェクトのビジョンをブラッシュアップできないか、ということでした。

ほっこり村の活動自体は、全然新しいものでもないし、コンセプトもありふれているようなものです。ビジョンもしかり。そこには独創的な部分は非常に少なくて、それではいけない。後付けでもなんでも良いけれど、新しい潮流を生み出さないと、それはゴミです。だから昨日深夜に必死で考えた。

津波のように以下。ビジョンは100年単位で持続する。本質的なのはテクノロジーでもユーザーのニーズでもなく、ビジョンやグランドセオリー。

じゃあ、「超高齢社会」「高齢者福祉」の領域において、新しいビジョンを提示するとするならば、どんなことが考えられるのか。ほっこり村は新しいビジョンを提示しているとは言えない。ビジョンを創り出す、つまり「理想的な超高齢社会」の形をデザインする、それがほっこりプロジェクトの最終的な課題。

超高齢社会をデザインすること。昨日読んだ記事のなかで印象的だったのが、デザインの語源は、ラテン語の「デジナーレ」で、「記号化」を表し、要するに「形にする」ということ、という記事。先述の「理想的な超高齢社会」像も、まだ実際的な形なんか帯びてない。未来は予測するものでも模索するものでもなく、創造するもの、とコンピュータの父アランケイさん。未来はまだ非決定で不確定であり、だからこそ未来の超高齢社会の理想型をこれからデザインしていくことができるし、自分になにができるかと言えば、その形を創造していくための主体的努力しかない。

では、具体的にどう「理想的な超高齢社会」をデザインしていくのか。

そもそも超高齢社会って、単に「子供が減少して高齢者が増加する」という問題じゃないはず。少子高齢化問題は、その統計学的な数値と同時に人類活動の「成長の限界」を表していて、その「成長の限界」の先に待ち構える「下り坂時代」のQOLとは何か、ライフスタイルとは何か、思想と理論は何か、グランドセオリーは何か、そして、ビジョンは何か、ということを我々に問うている。

超高齢社会の諸問題に対する有効な対策は、人類活動の縮小時代のための新しいパラダイムやフレームワーク、ビジョンを創造することなんじゃないか。

じゃあ、超高齢社会、あるいは「縮小時代」における具体的なビジョンとは何か。パラダイムは何か。

ここで、「そもそも縮小時代って悪いことじゃないよね」ていう転換。鈴木先生。縮小時代のビジョンを考えるにあたっては、「縮小」を快楽に転換してしまうようなまでの全く新しいビジョンが必要。価値観の抜本的転換であり、まさしくパラダイムシフト。

その縮小時代をいかに生きるのか、縮小時代におけるQOLとはなにか、そこでほっこり村はどんなライフスタイルを提案することができるのか、という点が、ほっこりプロジェクトに課せられた中心的命題だとおもうんだけれど、そこで「関係性」というキーワードが出てくる。

なんで関係性か。関係性は非常にキーワードになると確信できる。科学だって、ニュートンやデカルトの時代に構築された機械論的世界観、機械論パラダイムの限界が到来しようとしていて、生命論パラダイムの時代が絶対にくる。で、この生命論パラダイムの根底に流れる最も重要な思想は、関係性だ。要素還元主義的に物事は要素に分割可能であり、全体に還元可能であるという機械論的世界観はこの「関係性」を完全に無視している。つまり、身体の全体システムから肝臓だけ取り出して研究した。魚を海から釣り上げて研究した。でも、それじゃ死んでるよ。魚を水中に戻す。人間をとりまく動的な関係性を認識する。ほっこりいずむの理念は、全てこの生命論的世界観に裏付けされている。

コンピュータの普及は世界の常識と関係性と人々のライフスタイルを抜本的に変革した。しかしその弊害として、アナログ世界での人と人との関係性のネットワークサイズが薄れつつある。だからもっとTangible(可触的)な関係性を、地域のなかで構築したい。

断言できるのは、これからいくらコンピュータが発達して、コンピュータの使用頻度の高い今の50代かそこらが高齢者になっても、外出せずに生活できるようになっても、「人と人が関係性を持ってコミュニケーションする」「コミュニティをつくる」という人類の根本的欲求は絶対に破綻しないということ。人類の、ではないかも。生命38億年の歴史のなかで、細胞が共生しはじめたその瞬間から、生命には「関係性のなかで共に生きる」しか残された道はないんじゃなかったのか。

科学技術の発達は全然悪く無い。でも、超高齢社会のうえに山積する諸問題を解決するためには、科学技術だけでは賄いきれないよ。もっと新しい思想と理論を創造していくことは必須だし、それが本質的な意味での世界に対する主体的なアプローチと、「好ましいゆらぎ」の創出であると確信できる。言葉が途中から違ってきちゃったけど、それがビジョンの創出ね。100年単位で持続する。

そうすれば僕が死んだあとの世界にもポジティブな影響を与え続けることができる。日本は世界に先駆けて超高齢社会に突入した。これはピンチとか日本オワタとかネガティブなイメージと一緒に報道されがちだけど、下り坂時代の生き方やビジョンを再考して、より豊かな生活とはなにか、QOLとは何か、生きるとは、死ぬとは、老いるとは何か、を考えるチャンスとは考えられないの?

非常に多くの領域の学際的協力が必要だけれど、そのビジョンと理論が完成すれば、日本は世界レベルでの超高齢社会における福祉モデルを確立することができるんじゃないのか。僕がやるかはともかくとして、ある一つのモデルと前例を作ってしまえば、全国各地で勝手に誰かが同じような地域コミュニティを開始する。少なくとも、思考を活性化できるはず。

とにかく、超高齢社会の福祉モデルとして、どんな形をデザインすることが可能なのか、それを生み出すための主体的努力。ほっこり村第一回の開催までもう時間がない。

恐ろしく雑な文章だったけど、なんかやる気出たので、必死で考えたいとおもいます。写真はLAMYのSafari。万年筆にすればよかった。

2011-03-30 | Posted in No Comments » 

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