もう春だし歯学部でドイツ語を学ぶ意義を再考してみる

今日はお好み焼きを食べました。

そんなことはどうでもいいとして、僕は歯学部で独語講義を学ばせる意義が全くわからなかったので、独語が大嫌いでした。恐らく歯学部の歴史上最も独語が嫌いな学生だったと思う。なぜ嫌いだったのか、そして本当に僕は独語が嫌いだったのか、それを再考してみたい。

結論から言うとやっぱり本当に大嫌いだった。ゴキブリ食べろ、それか独語をもう一度学び直せ、と言われたら迷わずゴキブリ食べます。それくらい嫌い。独語に関する文章を書いているとなんだか気持ちが悪くなってくる。嫌い。

そもそも、人間は母国語のバイアスを通して世界認識する。否、母国語のバイアスを通じてしか世界認識をすることができない。よくある例だけど、虹は日本語を母国語とする日本人のなかでは7色と認識されるけれども、フランス語を母国語とする人々には4色として認識され、英語は5色だったかな、ドイツ語は知らん、という風に母国語とする言語によって人間の世界認識というのは大きく相違する。

だって英語と日本語の単語さえ、全然一対一対応では賄いきれないんだから、言語ごとに認識が相違して当然。headって「頭」と訳されているけれど、headは首から上で、頭は額から上でしょ。それと同じで、たぶん日本語の「青」という定義と概念と英語の「blue」の定義と概念(青が実際に異なるかは知らん)は相違するはず。ドイツ語は知らん。

虹は実際には連続的な色の変化であり、「こっからここまで青」とか「こっから紫な」とか分割することは不可能なんだけれど、人間が言語によって世界を認識した場合には「こっから青」と世界を分割して認識しちゃう。口と頬の間に切れ目なんか無いけど、そこにラインを引いてしまうのが人間の言語。

だから現代の新たな潮流として存在する生命論パラダイムとか全包括主義とか要素還元主義的世界観からの逸脱とかは全部そういう言語による世界認識に抗っているというか、もっと非言語的な世界もあるんじゃないか、世界をなるべく分割しないように認識できるんじゃないか、という側面があるのだとおもいます。

身体も虹と同様に連続的な動的プロセスですよね。だからその身体を分割して認識したとき、一つの全体性を見失うというか、要素還元主義的に「全身から口腔を取り出した」ときに全身の連続的な動的プロセスが視界に入らなくなる、ということが起こってしまうんだとおもう。

違うこんな話をしたいんじゃなくって独語が嫌いだっていう話をしたいんだけど、ともかく人間の世界認識の大部分は母国語に依存していて、母国語の能力こそが世界認識の能力。で、母国語の能力ってのは世界認識だけではなくって、まあこれはたぶん母国語でなくても良いんだけれど、論理的に仮説だてる能力とかコミュニケーション能力とか読み書きの能力とか、ともかくそういった言語の能力の根底には「母国語の能力(=母国語による世界認識の能力)」がどっかりと腰掛けているんだと。

だから、母国語の能力を教育する意義は大きいとおもう。それもレ行変格活用とかそんなのじゃなくって、もっと自分なりに仮説立てて、論理立てて、言葉を再構築する言語能力が本質的に必要じゃないか。でも鶴見の先生は何を勘違いしたのかわからないけれど、最近の若者はコクゴリョクが不足しているとか言って高校教師呼んで敬語はこう使うとかわけわからない講義をして、母国語を教育した気になっている。で、「個力が集う」とかどう読めばいいかもわからないこと言ってる。それはいいとして、とにかく日本語を母語とする我々にとって日本語教育は非常に重要なんじゃないか、ということです。

だから、グーテンモルゲンなんて言ってる場合じゃない。こんな詰め込み型の学部も今時珍しいと思うけれど、それは医療系学部の性質上仕方が無いことだと思うが、そんななかで独語なんてやってる場合かなあ。もっとやるべきことがあるんじゃないかなあ。そう入学時は思っていて、まあ初回の授業で独語を学ぶ素晴らしい意味付けがあって納得させてくれるんだろう、と思っていたらそれが全く無かった。そして結局独語の講義のなかでは一年間何も得ることができないまま終わった。面白さの欠片もない。まあ語学を学ぶのが好きな人は楽しいと思うけど、ここ歯学部だぞって話であって、「ドイツ人の患者さんが来たら…」とか言ってる学生や先生たちを見ると、ほんとうにかなしくなってくる。「ドイツという国の理解が…」とか馬鹿なこと言ってる講師も同じだよ。

そもそも、世界の国際言語は英語であって、EnglishではなくてEnglicであって、言語学者じゃあるまいし「学問としての英語」は学ぶ必要がない。少なくとも歯学部で必修で独語を学ばせる意味は何処にもない。これからのボーダーレス時代、本質的に必要なのは「コミュニケーション手段、情報交換の手段としての英語」であり「国際言語としての英語」なんじゃないの?なんで英語の授業は中学生レベルで終わって独語やるの?頭悪いの?しぬの?

でもこんなこと思ってたら試験に通過できないので、試験直前には盲目的に対策せざるを得ない。それが間違って薄目を開いちゃったりすると、今回のように発狂する。だけれど「したくないけどしなければならないこと」が世の中にはたくさんある、ってのは事実なはず。その最善の対策は、意味のないことでも自分なりに意義付けをして、主体的にそれをやる、そういう姿勢だと思います。だから僕も独語を学ぶ意義付けをしようとした。そりゃもう様々なことを考え、悩んだ。

で、唯一出た答えが、独語のために独語をやるのではない、ということ。チョムスキーの生成文法とか、あと生成概念にも表されているように、全ての言語には生成的、即ち大まかな共通性がある。生成概念も同様。これが何かっていうと、独語を学ぶことによって英語力が向上するんじゃないか、と。ついでに日本語力も向上するんだ、という意義付けをしました。でも、先述したように歯学部で英語を学ぶのは「国際言語としての英語」。「学問としての日本語」もやる必要ない。だったら英語のために英語の講義を増やした方が絶対に効率が良いはずだし、日本語の本質的な能力を付けた方が良い。だから、やっぱり独語を学ぶ意義はない(結論)。

まあ歯学部のよくわからないシステム上、独語は必修でなければならないのだと思います。なんでこれが変わらないのか不思議でたまらないんだけど、求められたことを求められただけやるのが歯学部生だから仕方ない。求められた分をやらなかったら留年で、求められているよりも少しでも多く学んでしまったら馬鹿。金太郎飴製造大学。そんな価値観しかない大学に、果たして「個力」は集ってるのかな。答えは分かりきってるよね。おつかれ。

2011-03-26 | Posted in No Comments » 

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