『われらはみな、アイヒマンの息子』, ギュンター・アンダース

アドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人問題の最終的解決(ホロコースト)において、ヨーロッパ中のユダヤ人をアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所に輸送する計画を指揮したとされ、1961年に「人道に対する罪」などにより絞首刑に処された。

本書は、そのアドルフ・アイヒマンの息子であるクラウス・アイヒマンに向けて、ユダヤ人の哲学者ギュンター・アンダースが宛てた公開書簡がもとになっている。rp_Adolf_Eichmann_at_Trial1961-203x300.jpg

ところで、本書の著者であるギュンター・アンダースは、ハンナ・アーレントの夫である。アーレントもアイヒマン問題についての著作を残しており、一般的にはこちらのほうが有名だろう(『イェルサレムのアイヒマン(1963)』)。

『イェルサレムのアイヒマン』において、アーレントは、アイヒマンは「人道に対する罪」で絞首刑に処されたのではなく、むしろ「思考不能」すなわちthoughtlessnessの点で、よりいっそう有罪であったのだとした。

アーレントがいうには、アイヒマンは血に飢えた怪物ではまったくなく、どこにでもいる小役人であった。そして、彼のような人物がホロコーストという破局を指揮するに至ったのは、彼が上からの命令に忠実すぎたため、であるとした。彼の欲望とは、世紀を代表する道徳的カタストロフィーを引きおこすことではなく、上官からよく思われたいだとか、与えられた仕事をきちんとこなしたいといった、とても小さなそれでしかなかったのだ。

アーレントはそれを「悪の凡庸さ(banality of the evil)」ということばで表した。そして、高度に複雑化して個々人の役割が分業され、間接的な作業の集積が全体を形成している現代社会においては、潜在的に誰しもがアイヒマン的である、という問題提起をおこなった。本書におけるアンダースの一貫した主張も、我々はみなアイヒマン的世界の後裔である、というものだ。

 

怪物的なものが立ち上がるとき


画像:Wikipedia

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この公開書簡の背景にあるのは、「怪物的なもの」である。

怪物的なものとはすなわち、何百万もの人間が虐殺されたことばかりでなく、上意下達のシステムに組み込まれた奴隷的なアイヒマンたちが存在したこと、そして彼らがなにも知らない状況に置かれ続けたこと、までも含む。

この怪物的なものは、なぜ可能だったのか。なぜ怪物的なものは、立ち上がったのか。アンダースは、「私たちの感覚が不十分だ」とした。

高度に複雑化した現代社会は、テクノロジーにより裏打ちされている。テクノロジーは人類の手によって発明されたものだが、テクノロジーの複雑化・巨大化にともない、それは人類の手に余るものとなってしまった。

つまり、私たちの製造する能力と、私たちの想像する能力のあいだにギャップ(落差)が生じたことにより、私たちは自身の作業の最終的結果を想像することができなくなってしまうのである。大きすぎることを目の前にしては、私たちは無能にならざるを得ない。十人が殺害された話は悲劇であるが、六百万人の死者はたんなる数字でしかないのだ。これは、私たちの感覚が鈍感になっているのではなく、私たちの感情に与えられた課題のレベルが巨大化している、ということだ。

このような経緯を辿て、「怪物的なもの」は起動するに至るのである。

 

想像の失敗にどう応答するか


上記のことを、アイヒマンは裁判で主張した。つまり、私はあの破局を引き起こしたが、上からの命令に従っただけだ、と。

これは正当な主張だろうか。ユダヤ人を強制収容所に送る書類にサインし続けるという作業が、どのような最終的結果を生むのかについての想像に失敗することは、自身の犯した「怪物的なもの」を正当化するうえで、十分な根拠となり得るだろうか。

もちろん、アイヒマンは免責されない。想像の失敗は、自身の犯した罪を正当化する理由にはならない。アンダースによれば、想像の失敗は、チャンスである。想像の失敗は、「これから見通しのきかないものが起動する」という警告だ。想像の失敗には、抑制のメカニズムを始動させることのできる肯定的な道義的機会、すなわち警告の力が内在している。

しかしアイヒマンは、想像の失敗をチャンスとは捉えなかった。あろうことか、それを自身の行為を正当化するために用いたのである。

”  私は怪物的なものを認識していない。「落差」のせいで、怪物的なものなど認識できないのだから。したがって私は自分に何の責任を負わすこともできない。だから私は怪物的な行為を行えるのだ。”

機構性とギャップ


ギュンター・アンダース

本書の著者であるギュンター・アンダース

「落差」のほかにもう一つ、アンダースが怪物的なものが起動する根源として挙げているのは、私たちが暮らす世界の機械性(機構性)だ。

最終的結果を想像することができないのは、それがあまりにも巨大であることばかりでなく、その作業のプロセスが過度に間接的であることも原因である。

仕事や作業が細分化された今日において、私たちが作業者として行為するとき、私たちは全体のプロセスのなかの一断片に集中するように断罪されている。つまり、全体の機構を想像することからは、監獄に閉じ込められた囚人のように、完全に閉め出されているのである。

なぜ怪物的なものは立ち上がったか。その問いに対するアンダースの答えは、すなわち以下のようなものになる。

  • 彼らが自分自身をもはや機械の部品としてしか見なかった。
  • 彼らは機械の存在とすぐれた機能を機械を正当化するものだと誤解した。
  • 彼らは幾重もの壁によって最終的結果から隔てられ、自分の専門職の「囚人」であり続けた。
  • 彼らはこの最終的結果が法外な大きさであるために効果を想像することができず、また自分の仕事の間接性のために、自分がその抹殺にかかわっている大量の人間を知覚できないようになっていた。
  • 彼らがアイヒマンと同じようにこうした無能力を利用した。

 

無関心に反対する


画像:Deutsches Bundesarchiv

画像:Deutsches Bundesarchiv

このような書簡に対して、クラウス・アイヒマンからの返答はなかった。第一の書簡からおよそ25年の歳月が経ち、アンダースは「無関心に反対する」というタイトルが付けられた第二の書簡を投函している。

今日において、無関心は罪である。自分の間接的行為の結果に対して、故意に盲目的になり、その盲目さを利用する。あるいは、このような盲目性と戦わないことすら、罪なのである。

「私がそれをしなくても、恐らく他の人がするだろう。その結果は同じことになるのだから、とすれば、なぜ私がしてはいけないのだ」という宣言は正当化されない。他の人がそれをして、手を汚してしまう可能性は、自分が手を汚す正当性にはならないからだ。

他の人も自分のように命令に従うのだから悪人である、という事実があったとしても、私たちは他人の手をできるだけ汚れから守るように努力すべきなのである。他人の悪行の可能性があったことにより、自分の悪行が免責される、あるいは無効になるという論拠じたいが、すでに悪行である、とアンダースは一刀両断する。

 

根を掘り起こす


ハンナ・アーレント

ハンナ・アーレント

アイヒマン問題をかんがえるうえで最も重要なことは、過去に現実に起きてしまった破局は、それが起こった前提条件が根底から変わらない限り、今日でも再び起こり得るという洞察である。怪物的なものの時代は、たんなる空白期間ではない。

アンダースはそれを「根」と表現している。アイヒマン問題が一回性ではないのは、アイヒマン問題が、その根になった実であるからだ。アイヒマン問題を生みだした根を、いま掘り起こさなければならない。

ここで注意すべきは、その「根」は、特定の政治的な主義や体制よりも、はるかに深く達している根であるという点である。それがたんなる政治的な根であるならば、その政治体制が崩壊すれば終焉し過去のものになってしまう。しかし、アンダースが問うた「根」とは、私たちの人間性にまで深く達した根なのである。

アンダースの小説『モールシアの墓場』に登場する、「公正」を自称する死刑執行人のスローガンは、以下のようなものだった。

”  私から見れば誰もが正しく、誰もが同じ正しさをもっている。”

これは、アイヒマン自身のスローガンであったと同時に、今日でも何百万もの人びとのスローガンである。このスローガンを致命的なものにしているのは、これが誰にとっても普遍的に利用できるということだ。

アイヒマン問題は、過去の問題ではなかったのだ。私たちは過去に対して傲慢になることはできない。私たちは今日も、大きすぎるものに直面している。そして、大きすぎるものに直面して、それについてかんがえることを停止してしまう。つまり、われらはみな、アイヒマンの息子なのである。

 

グローバリゼーションの帰結


今日における「大きすぎるもの」のひとつとして、グローバリゼーションが挙げられる。

これこそ、アンダースのいう「世界機械化」であり、抗うことのできないような圧倒的な力で価値の一元化を推し進めるという点において、究極の全体主義化であり、また近代の植民地主義の徹底された形態である。

経済成長という一元化された絶対的価値に、「私から見れば誰もが正しく、誰もが同じ正しさをもっている」というアンダースのことばは、どのように響くのだろうか。

このようなグローバリゼーションがもたらす最終的な帰結について、僕は僕なりに想像を試みる。だが、それはあまりにも巨大で、私たちの想像力の限界をはるかに超えている。

想像するという試みが失敗したとき、どのような応答をするか。アンダースはそれをチャンスであると言った。想像の失敗は「見通しのきかない何かが起動する」警告であるとした。一方で、アイヒマンはそれを、自身の行為を免責するための手段に利用した。そして、20世紀最大のカタストロフィーを引きおこした。

私たちが盲目であり続ける限り、経済は成長拡大を目指し続けるかもしれない。盲目であることを、警告と受け止めるのか、それとも成長拡大への突き進むための手段とみなすのか。

21世紀のいまになってみても、アイヒマン問題は今日的な問題として、私たちの目の前に立ち現れているのではないだろうか。

 

    1. 『われらはみな、アイヒマンの息子』, ギュンター・アンダース, 晶文社, 2007.
    2. 『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』, ハンナ・アーレント, みすず書房, 1969
    3. 『全体主義の起原 1 ―反ユダヤ主義』, ハンナ・アーレント, みすず書房, 1972
    4. 『聖なるものの刻印 科学的合理性はなぜ盲目か』, ジャン=ピエール・デュピュイ, 以文社, 2014
2014-06-28 | Posted in 人文, 社会, 考えComments Closed 

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