悪意の不在・システム的な破局『ツナミの小形而上学』, ジャン=ピエール・デュピュイ, 2005

「世界が終末を迎えようとするまさにその瞬間、しかもそれは私たちの過ちによってなのだが、そこにもたらされるイメージとは、悪意なき殺人者たちと、憎悪なき被害者たちが住まう楽園の光景である。悪意の痕跡など微塵もない。あるのはただ瓦礫だけなのだ」。

―ギュンター・アンダース

『ツナミの小形而上学』は、破局をもたらす人びとの意図から悪が独立していることを主要なテーマとし、ヒロシマ、ナガサキ、アウシュビッツ、ニューヨーク、リスボン、スマトラを襲った数々の破局について論じている書である。

本書でいう「ツナミ」とは、一昨年東日本の沿岸を襲ったあの日の「ツナミ」ではなく、純粋な暴力としての「ツナミ “的なもの”」の総称を示す。本書が著されたのは2005年である。

 

■悪意の不在

ヒロシマは、悪をなそうとする意志から悪が生じている。道徳的カタストロフィーである。一方でフクシマは、善をなそうとする意志から、悪が生じている。これは、自然のカタストロフィーでもなければ、道徳的カタストロフィーとも言えない。フクシマは、産業・技術的なカタストロフィーであった。

イヴァン・イリイチは、このような悲劇的逆転を「逆生産性」と呼んだ。イリイチは、悪意を超えるほど大きな破局は、むしろ善意の産業によってもたらされるとした。今や怖れるべきは数々の悪意よりも、むしろ国際原子力機関のような、「全世界の平和、衛生、繁栄」を保障することを任務とする組織体なのだ、と。

そのような組織体で、巨大な機械を操作する人びとが、有能かつ誠実であることが問題である。彼らは、自分たちが非難の対象になるということを理解することができない。

「破局をもたらす人びとの意図から悪が独立している」とは、このような逆生産的な悲劇的逆転のことである。

1940年、アウシュビッツ。アドルフ・アイヒマンは、ナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決(ホロコースト)」に関与し、大量虐殺という道徳的破局をまねいた一人である。

ところがアイヒマンは、悪をなそうとする血に飢えた怪物でもなければ、大きな善をなそうともしていなかった。1961年、彼には死刑判決が下されて翌年の春に絞首刑に処されたが、彼がまだ官僚であった当時望んでいたのは、上官からよく思われたいだとか、与えられた仕事をきちんとこなしたいといった、そういうタイプの小さな欲望でしかなかった。

アドルフ・アイヒマン

アドルフ・アイヒマン

しかし結果的に、600万人以上のユダヤ人が殺害されるという道徳的破局を指揮してしまうことになった。なぜ彼は有罪だったのだろうか。

ハンナ・アーレントによれば、彼は「人道に対する罪」よりも、むしろ「思考不能」すなわちthoughlessnessにおいて、いっそう有罪であったのだ、という。thoughlessnessとは、「想像力の完全な欠如」であり、「目先の事以外見えていなかったこと」である。

彼は裁判で、自らの犯した残虐的行為について「命令に従っただけだ」とし、「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残している。

また、ハンナ・アーレントの夫であるギュンター・アンダースは我々は誰しもがアイヒマン的世界の後裔である、と述べている。つまり、我々はメカニズムのなかで無抵抗かつ無責任に歯車のように機能してしまい、道徳的な力がそのメカニズムに対抗できず、誰もがアイヒマンになり得る、と論じている。

このように、なによりもスキャンダルであるのは、巨大な悪が今や、まったく悪意が不在のなかで生じ得るからなのである。悪意を伴わない一大破局は、思考の完全な欠如によって生じ得てしまうのである。「ここに、なぜということばはない」が、アウシュビッツのスローガンだったように。

 

■未来の破局はなぜ聞き入れられないのか

ギュンター・アンダース

ギュンター・アンダース

アウシュビッツの例を続けよう。虐殺の対象となったユダヤ人たちは、アウシュビッツ=ビルケナウ駅のホームに至ってもなお、自分たちにこれから降りかかる非道徳的行為を信じようとしなかった。ドイツには「道徳的にありえないと思われることは、存在することができない」ということわざがある。「知る」だけでは不十分なのである。私たちは、未来の破局を論理的に理解することができても、それを回避することができない。

大事なのは、それはどうしてなのか、ということである。なぜ、我々は破局の未来を予見できていても、それを回避することができないのか。

デュピュイはその問いに対し、「システム的な悪」というキーワードを用いて応答している。

システム的な悪は、道徳的な悪でも、自然的な悪でもない。近代においては、前者が後者を呑み込み、その果てにやがて誰の責にも帰すこともできない、システム的な悪が生まれる。

リスク・マネジメント論者は、要素還元主義的に問題を細かく切り離し、個別に分析すべきだという。リスクとベネフィットを天秤にかけるのだ。デュピュイは、彼らの「合理性」は、アーレントがアイヒマン裁判をめぐって述べているthoughlessnessとなんら変わりがない、としている。

そしてこう続ける。企業が追求する事業実績の競争は「深淵に思いを馳せないレース」であると。そのレースは自己を超越する形式で存在する。あらゆる者がその維持に貢献するが、レースに参加する彼らにとってそれは「純粋な外部」と錯覚される。誰もが逃れられない至上命令であり、そのレールの上を走らざるを得ないように見える。しかしそれは、他ならぬ自分自身の手によって作られている。このプロセス自体が、thoughlessnessによって引き起こされているのであり、善をなそうとして悪をなす、システム的な悪の本体であるという。

未来の破局は、人間の悪意や憎悪によって引き起されるのではない。未来の破局は、避けることのできない宿命としてあるのではなく、悪意やエゴイズムよりも、むしろ近視眼でもって特徴づけられる数々の善を志向する決定が、自己外在化ないし自己超越のメカニズムを介して、屹立する全体を構成する。それがデュピュイのいう、システム的な悪だ。

 

■問題解決者としてのホモ・サピエンス

ジャン・ピエール=デュピュイ

ジャン=ピエール・デュピュイ

2000年に終了した「国際自然災害防止の10年間(DIPCN)」の結論の一つは、今後は「自然災害」という表記を用いてはならないということだった。自然の危険性は存在し阻止できないが、その現象が惨事をもたらすのは社会的脆弱性のせいである。そんな結論が導かれた。自然によって引き起される社会的災害のいっさいが科学・技術の「問題」へと格下げされ、人類の叡智によって遅かれ早かれ解決されるだろうと考えているのである。

しかし、科学技術が生み出した問題は科学技術が解決していく、という理解は不確実なものでしかない。

「未来を予測するための最善の方法は、それを発明することだ(The best way to predict the future is to invent it.)」、未来はツリー状のようなもので、私たちの目の前には、「実現可能な未来」がカタログのように広がっている…。このような未来を非現実化する発想を、覚醒した破局論では形而上学的な一大障害物であるとみなしている。なぜなら、私たちは未来の破局を回避できると考えると、それが自分たちを脅かしているとは考えなくなってしまうからだ。未来が現実的でないなら、未来の破局も現実的でなくなる。この循環を、覚醒した破局論は打ち破ろうとする。

まだ来ない未来の破局には現実性がない。だから、理論的に破局が予見可能であったとしても、人びとは四半期的な利害にしたがって、電卓を叩き続けるしかない。

それは、産業経済システムに依存し、そのシステムの部品として組み込まれて暮らす人間は、未来の非現実だけを根拠に現在の行動を変えることができないからだ。だから、目の前の現実の要請にしたがって行動することで、むしろこのシステムの運行を促進し、ますます破局への道を突き進むことになる。

科学技術に依拠して産業経済によってシステム化した現代社会は、個々の人間の意図を超えた「行為の自動化」のサイクルに突入している。不都合な成り行きがほぼ確実なものとして予見されていても、それに歯止めをかけることができない。だからこそ、破局は避けられない。日本語版の解説に出てくる「この先に大きな滝があるのがわかっているのに、流れに身を任せるしかなすすべを知らない船の漕ぎ手のような状況」という比喩は、とても的を射ているとおもう。

 

■いかにして破局の未来を回避するか

しかし、破局の未来が現実になってしまってからでは遅すぎる。どうしたら破局を回避することができるのか。

デュピュイは、その概念的な手がかりを、西洋的伝統の外に求めた。西洋の時間概念は、過去から未来に向かって一方向に直線的に流れ、そのなかで幾つかの実現可能な未来のカタログから一つを、主体である人間が、自由意志で選択する、というものだ。そのときの選択の根拠は過去であり、現在の趨勢であって、未来は準拠にならない。しかしデュピュイは、未来から現在を考えるという思考の反転可能性を、西洋的思考の外部に求めている。

未来の破局という考え自体は、キリスト教的な世界観における時間概念の規範的構成要素に織り込まれているものだ。つまり、時間は終末に向けて等速直線的に、また不可逆的に進行すると見なされ、その直線的な時間軸の末端に、破局が位置づけられる。これが終末論的時間の概念だ。だから、破局が時間によって導かれる終局として想定されるのは、キリスト教思考あるいは西洋的思考にとっては自明なことである。

しかし、科学の「進歩」と産業経済の「成長」、それによる人類の「無限の進歩」を目指す現代社会の人間主義的シナリオは、その終局さえも想定することを辞めてしまった。

ところがこの十数年で、地球環境という物理的限界に直面し、無限の進歩という幻想は揺らぐことになった。その限界は空間的なもの、あるいは量的なものであるだけではない。無限に開けていたはずの時間は「未来の有限性」として、時間的にも立ち現れていたのである。

「大地は子孫が貸してくれたもの」。デュピュイが本書で引用している、アメリカ先住民の箴言である。この箴言における時間の概念は、西洋の直線的なそれから、円環的なものへと転換されている。

このような時間概念の転換は、すでに私たちの目の前に、現実的な問題として要請されている。それは、thoughlessnessから脱却するために僕が想像できる限りの、ただひとつの方法である。
   

2013-12-23 | Posted in 人文, 社会Comments Closed 

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