規格化された「絶対善」−道徳教育の教科化、またはその在りかたについて

■「道徳」が正式科目に?

道徳教育 大津市で中学2年生の男子が自殺した事件など、昨今のいじめ問題を背景にして、「道徳」教育の統一化・規格化、すなわちこれまで学校の教育活動全体を通して行われるべきであると捉えられていた「道徳の時間」を、教科として評価しようという動きが、教育再生会議で提言されている。

 

 道徳の教科化は、学習指導要領が改定される2018年よりも前倒しで行われるとの見方が強まっており(文科相、道徳教科化前倒し検討 | 日本経済新聞 電子版)、「いじめ対策」を根拠とした制度化への流れが急速に進展している。
 

■道徳教育教科化の問題点

 道徳教育の教科化に際して、僕は以下の2つの問題点があるとおもう。

 

  1. 「絶対的に正しい道徳」は存在するのか?
  2. 「文科省お墨付き」の道徳教育はいじめ問題の免責に使われかねない

 

1).「絶対的に正しい道徳」は存在するのか?

道徳教育の教科化は、言うなれば、「絶対的に正しい道徳」とはなにかを国家が定義し、それを上から押し付ける教育である。

例えば、「いじめは絶対的にいけないことだ」という「正しい道徳」を、児童に植え付けさせるわけである。同じように、「戦争はしてはいけません」「風俗嬢になってはいけません」「たくさん働いてたくさん税金を納めましょう」。それがわからなかったり、反論がある児童の道徳の成績は「1」とか「2」になるわけである。教科化とは一定の指標を用いて成績を数値評価することだから、道徳教育もそうなってしまうということだ。

だが、「絶対的に正しい道徳」なんて、誰が決められるのだろうか。「いじめは絶対悪である」「戦争にメリットなんて一つもない」、「風俗嬢は社会から排除されるべきだ」。

これらは、すべて相対的に決まっている一般的な道徳であり、ひとたび状況が違えば、道徳の正しさは変わってくる。というか、「正しい道徳」意外の、意見の多様性があってはじめて、社会は健全であると言えるのではないか。善良な市民も、風俗嬢も、暴力団もいるから、多様な意見がある。だから社会は回っていくのだ。

そもそも、道徳とはなんだったか。道徳は、その地域や共同体の独自性のなかで相対的に養われるものである。それを教科化して、文科省から発信される画一的なカリキュラムと五段階評価で「道徳教育の充実を図る」ということ自体、施行前から制度として形骸化していると言わざるを得ないのではないか。

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2).「文科省お墨付き」の道徳教育はいじめ問題の免責に使われかねない

道徳教育が教科化したら、文科省が道徳教育のカリキュラムを決定する。そうすると何が起きるか。現場の教員をいじめ問題から免責するためだけの形骸化した制度に成り下がる可能性がある。

現場の教員は、「絶対的に正しい道徳」、すなわち文科省が定めた道徳教育のカリキュラムに基いて、画一的な授業を行うことになる。そこには、地域社会の独自性や、現場教員の裁量が入り込む隙間はない。定められた「絶対善」にしたがって、それをなぞっていくだけだ。

この時点で職員室には、ある論理が起動する。それは、「教えれば教えただけ理解できている」という論理だ。さらに、「五段階評価で優秀であれば、それだけの能力を持っている」、「厳正に規格化された道徳教育を受けているのだから、優秀な社会道徳の素養を持っているはずだ」という論理である。

だからもし、「文科省お墨付き」の道徳教育のカリキュラムで授業をしたのに教室でいじめが発覚したら、教員は次のように、論理的に言い訳できるわけである。

「あれだけ正しい道徳教育をしたのにいじめが起きた、これは極めて例外的な事態であり、児童個人間の問題であり、教員個人と学校側に責任はない」。

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■道徳教育はどう在るべきか?

先述したように、本来の道徳とは、地域をはじめとしたローカルなコミュニティのなかで相対的に決まっていくものだ。

道徳教育の教科化・統一化において、なにが一番問題なのかというと、道徳教育が画一的になること、ひいては「絶対的な善があらかじめ存在する」と子ども達が理解する、ということである。道徳教育は、「絶対的な善」を教えるのではなく、「相対的な善悪」の存在を分からせなければならない。

つまり、「いじめはいけません」からスタートするのではなく、「いじめとはどんなもので、それはほんとうにいけないことなのか?」という場所から出発することで、ほんとうの道徳は作られていく。

以前、暴力団排除条例について(→『暴力団排除条例 ー民主主義の怠慢と社会保障制度の機能不全』)書いたことがあったが、「暴力」も、forceの場合とviolenceの場合があるように、「暴力は絶対的にいけません」という教室において支配的な思考停止はクソで、状況によっては、それが許容される場合おおいにありえる。

繰り返しになるが、道徳的な善悪とは、ローカルなコミュニティの独自性のなかで成り立つものであり、いずれも相対的である。その前提を無視して道徳教育を統一することは、「絶対的な道徳」から外れた子どもは排除の対象になる点で、いじめ撲滅には見事に逆効果になると思う。

道徳の教科化は、その制度自体に「個性をつぶす」性質を含んでおり、道徳が教科化されたあとの教室には、無能な教員に意義を呈することができぬ排他性が横たわっていることだろう。

少なくとも僕は、そんな教室にはいたくないと思うのだけど、どうなんだろうか。

2013-08-16 | Posted in 人文, 社会Comments Closed 

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