文教地区の「透明さ」は「健全さ」を保障するか? -地域共同体とニュータウン幻想

 今年の春から、妹と暮らさなければならなくなって、同じマンションの32階から27階に引っ越した。暮らしはじめて、一人暮らしのありがたみを痛感している。
 かれこれ3年以上も中央区勝どきに住んだわけで、これからもしばらく住み続けるだろうけれど、昨年の秋ごろは、東京都国立市に住んでいた。駅から少し離れている、『大学通り』という大通りに面した一軒家だ。
 先日、その国立駅前に久々に足を踏み入れて、綺麗な街並みだなと思う反面、人工的すぎるような印象も抱いた。
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 国立には風俗がない。パチンコもない。
 国立市は、東京都の文教地区建築条例により、日本初の「文教地区」に指定されているからだ。
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 文教地区とは、都市計画法により地方自治体が指定する、<教育上好ましくないとされる業種の進出が規制されている地区> である。
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 だから、国立駅からずっと歩いていても、いかがわしいお店は全く無いし、眩しいネオンも見当たらない。「閑静」な街並みである。けれど、僕はそれをつまらないとも思う。
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 例えば、上野や錦糸町は歩いていて面白い。池袋も、六本木も、歌舞伎町も面白い。街が濃密な感じがする。
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 ところが、国立は面白くない。両者の違いは、一体なにに起因するのだろうか。僕が国立駅前の空気を吸って感じる違和感の正体はなんなのだろうか。なぜ上野御徒町は「濃密」で、国立の大学通りは「透明」なのだろうか。
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 それを考えていくと、土地・地域とはなにか、またそれにとってなにが本質なのかが見えてくる。
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■土地の本質

 そもそも、土地というのは、本来的に、そんなにキレイなものではない。性欲や権力、土着的・地縁的なつながりや上下関係が、砂粒まで染み込んでいるものだ。それが土地の本質である。
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 ところが、「文教地区」という舗装をされた国立市では、そういった「土地の不透明さ(=濃密さ)」を増幅されるようなものの一切は排除される。「複雑さ」を排除する、と言い換えても良いかもしれない。
 街の美観を損ねる可能性のある危険因子は、街全体の「上品さ」や「透明さ」、あるいは「健全さ」を維持するために取り除かれる。国立駅前には、性的な匂いもしなければ、コミュニティ感もない。なにもない。そこには「透明さ」だけがある。
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 僕が高校生のころ付き合っていた女の子が、東京のあるニュータウンに暮らしていた。そのせいあって、つい最近までニュータウンが好きだった。街の風景の放つ生活感の無い感じと、歩いている人びとの放つ生活感のアンバランスさが好きだった。
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 しかし、いま付き合っている彼女が、たまプラーザという新興住宅街に住んでいて、その街並みを歩き、そこに生活をしながら感じるのは、こんな街に住みたくないな、ということである。実際に暮らしてみると、「ニュータウンの透明さ故の不透明さ」が理解できると思う。
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 神戸連続児童殺傷事件の犯人・酒鬼薔薇聖人が暮らしていたのも、神戸の新興住宅街だった。当時14歳だった彼にとって、ニュータウンの透明さは過酷である。遊ぶところも、たまり場もない。気軽に介入できる地域のコミュニティもない。学校と家庭の往復で毎日が過ぎ去っていく。
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 ニュータウンの「透明さ」のなかで、彼はどこに「濃密さ」を求めたかというと、小動物の殺傷であり、挙句には殺人であった。
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 彼の犯行声明文のなかに書かれている「透明な存在」とは、教室や地域で空気のように振る舞うこと、すなわちニュータウンの「上品さ」「透明さ」のなかで同調的な自己演技をすること、そんな透明な自己の姿であった。
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 そして酒鬼薔薇にとって殺人とは、「透明な存在」としての自己を「濃密な時間」へと押し上げるような行為である。「透明な存在」であることを強いられる教室・学校には生首を置き、「透明さ」が保障されているニュータウンで殺人を犯す。それが「透明さ」のなかに暮らす彼が「濃密さのなかに暮らす存在」になれる唯一の瞬間だったのだと思う。
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 「透明さ」は脆い。「水清ければ魚棲まず」という言葉もある。透明すぎる空間に暮らすのは、あんがい、辛いことなのだ。「透明な空間」が住人に求める自己演技に、僕は恐らく耐えることはできないだろう。透明で、健全で、無害な空間は、僕たちに同調的な演技をすること、空気を読んでふるまうことを強要する。
 いくら有能な役者だって、365日24時間、舞台に立ち続けることはできない。演技をし続けることはとてもしんどい。
 だから、そういった透明な空間に必要なのは、堅苦しい演技をしない自己を諒解してくれる居場所、いつもとは違った自分を演じられる居場所、ではないだろうか。
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■「共同体の重層化」が地域社会の健全性をつくる

 僕は、本来的な地縁関係や権力支配を取り戻そう、という右翼的な立場ではない。
 「ムラ」的共同体が嫌になって、強い地縁関係が億劫で、あちこちにニュータウンが誕生したのだ。ここで土着的な共同体を取り戻しても、同じ歴史を繰り返すだけである。
 それを踏まえたうえでの、僕なりの結論・処方箋をさいごに書いて、この文章を締めくくりたい。
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 僕が「透明な街」に、あるいは「透明な街が強要する一本化された自己演技」に必要だと思うのは、「重層的な地域共同体」である。
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 地域共同体・コミュニティの重層化とは、要するに、地域共同体が地域社会のなかにたくさんあること、である。多くのコミュニティが重なりあって共生し、住人一人ひとりがそれぞれ幾つかの共同体に介入している状態。
 それが「共同体の重層化」ということであり、人びとの多様性を保障し、互いを受け入れ共生することのできる「健全な地域社会」の足がかりでもある。
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 その場合の共同体は、どんな形をしていても良い。実用的でも、意味のない集まりでも良い。風俗嬢同士のつながりでも、リストラ仲間でも、mixiのオフ会でも、それは立派な地域共同体であり、いかなる場合も弾圧されるべきではない。
 そういった共同体が地域のなかに重層的に存在し、住人がそれに幾つも介入できることが大事なのである。ニュータウンのような、没個性的な住宅街にこそ、多種多様な共同体・コミュニティが必要なのではないか。
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 本来的な「ムラ」的共同体においては、このような多様性はなかった。
 そのタイプの地域共同体は、より小さな地区ごとに区画化され、異物を認めないコミュニティだった。「ムラ」的社会においては、出る杭は打たれ、変わり者はコミュニケーションから排除される。
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 もちろん、誰かが誰かと仲が良いということは、誰かと仲良くないということと同じである。一つのコミュニティが形成されれば、そこから排除される人がいる。共同体の形成と社会的排除は表裏一体である。
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 だから重層化が必要なのだ。共同体が重層的である場合、ひとつの共同体で排除されても、別の共同体にアクセスすることができる。
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 また、自己演技という観点においても、「介入するコミュニティがなかった」あるいは「ご近所づきあいに一元化されていた」場合とくらべて、共同体が重層化された地域社会では、「複数の自己」を演じることになる。
 共同体が単層的である場合、人格Aしか演じることはできないが、重層的である場合、人格BもCも相手によって分けて演じることができる。
 自己演技は、これまでのニュータウンのような一枚だけの演技ではなく、共同体ごとに異なった自己演技をするようになるのだ。
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 健全な社会とは、多様な考え方、共同体、コミュニケーションが存在する社会のことである。
 健全な社会で、「絶対的な善」は存在し得ない。全ては相対的に規定されている。社会の「善」や道徳は、地域社会の構成員の多様な考え方のなかで、次第に形成されていくものなのだ。
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 だから、「理想的な共同体の形」など無いし、「理想的な街並み」もあり得ない。
 「この計画は絶対的に優れている」ことは絶対に無いのだ。
 外部から街並みを規定し、生活を制御する都市計画は、失敗せざるを得ないのである。「透明な街」を志向することは、複雑で予測不可能な現代社会からの逃避に過ぎない。
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 都市をつくるうえで設計者にできることは、外部からの制御ではなく内発的な秩序を生みだす営みに参画することであり、そのためには共同体を重層化し、多様な考え方とコミュニケーションをデザインを促進することが必要不可欠なのである。
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    だから文教地区は、つまらない。
2013-05-21 | Posted in 人文, 社会No Comments » 

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