「カワイイ」の哲学 -いま、なにがカワイイのか

 

きゃりーぱみゅぱみゅの情熱大陸を観た。われわれは、「カワイイ」ものを指向し、選択すべきだ。それが率直な感想だった。

僕たちが「カワイイ」と言うとき、「カワイイ」という形容には、以下の3つの特徴が備わっている。

・市場原理における勝利を意味しないこと
・しばしば永遠性を含むこと
・代替不可能であること

■「カワイイ」はお金では買えない

情熱大陸の放送のなかで、きゃりーさんは下北沢で買った500円のシャツを着ていた。彼女がそのシャツを購入するに至ったのは、「安いから」ではないだろう。「カワイイ」からである。「カワイイ」とは、必ずしも、市場原理に基づいて選択される商品が辿り着く場所ではない。

また、きゃりーぱみゅぱみゅの言う「カワイさ」は、ふとしたものだとか、バランスの悪いものとか、時にはグロテスクな要素でさえあり得る。
きゃりーぱみゅぱみゅにとっての「ヒゲ」は「カワイイ」のだし、「鼻血」も「カワイイ」のである。PVでしばしば登場するリアルな眼球や変顔もまた、「カワイイ」のである。
きゃりーぱみゅぱみゅの「カワイイ」は、市場経済において淘汰されるような、あるいは正統的なファッションにおいて毛嫌いされるような要素をも含むことがあるのだ。それがきゃりーぱみゅぱみゅの「カワイイ」の斬新さであり、驚きであり、独自性でもある。

■「カワイイ」は消耗しない
また、「カワイイ」はしばしば永遠性を含む。
例えば、これが「美しい」という価値観だと、直線的な時間軸に沿って、時間が進めば「美しさ」も上がっていく、というシンプルな比例関係が成立する。「美しさ」を基本的な評価軸とする画家は、初期の作品の「美しさ」が1だとしたなら、晩年期の「美しさ」は10である。
一方で、「カワイイ」という評価軸はそうはならない。前述したように、「カワイイ」には不完全なものやグロテスクな要素も含むため、晩年期の作品よりもこどものころの作品の方が「カワイイ」ということが起こり得る。晩年期の画家が「カワイイ」を狙って描いたのだとしても、それが「カワイくない」ことが生じるのである。

つまり、「カワイイ」という価値観は、直線的で客観的に対象化し得る指標ではなく、曲線的で、どこまで行っても主観的なのである。前者の評価軸が破綻したとき、そこに後者の評価軸が立ち上がるのだ。
「カワイイ」という価値は曲線的であり、曲線的な姿がまた「カワイイ」という循環を招く。

■「カワイイ」は取っ替えが効かない
最後の要素は、「カワイイ」の代替不可能性についてである。
代替不可能であることとは、「取っ替えが効かない」という意味だ。つまり、「カワイイ」を表現する自己は、誰かと取っ替えの効く代用品ではない、ということである。一般に「個性」とも言う。
例えば、マクドナルドのバイトは「カワイくない」。お金で買えるし、消耗品だし、誰かと取っ替えが効くからである。没個性的でもある。

「カワイイ」とは、「代替不可能な自己」を表現する方法である。「代替不可能な自己の表現」と「制御された没個性化」、どちらが健全であるかは、僕が述べるまでもないだろう。

■さいごに
「カワイイ」は、等身大で、個性的である。そして、もっと豊かに暮らすための評価基準である。同時に、「カワイくない」もの−−すなわち「マクドナルド化」したもの−−を淘汰するための潮流でもある。

成熟社会を生きるわれわれは、いま、なにを指向して、どんな思想を抱きかかえながら暮らしていくべきなのか。
僕には、「カワイイ」ということばが、未曾有の時代を生きるわれわれに、なにかを語りかけているような気がしてならないのだが。

2013.12 追記:
きゃりーぱみゅぱみゅ、最近はauのあからさまなCM曲とか、完全に商業と結びついているので、全然「カワイイ」ではなくなってしまったことを追記しておく。

2013-03-14 | Posted in 人文, 社会No Comments » 

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