「断片化された善」を共有せよ -オウム真理教・地下鉄サリン事件から18年-

麻原彰晃■はじめに

 地下鉄サリン事件から18年が経った。僕は当時3歳になったばかりだった。

 僕は今月5日で21歳になって、事件が起きた日比谷線も築地駅も、暖かくて平和な日々がつづいている。

 地下鉄サリン事件には、前々から関心を持っていた。共同体の閉鎖性が引きおこした事件であると思うからだ。

 僕がこの文章を通して語りたいのは、「他者の承認不足」の原因と、その結果起きてしまった事件についてである。解決策まで書いて、ブログ記事にしたい。

 この文章を書く前に、Twitterに3tweetほどした。それを以下に載せる。

 

 

 

■事件の概要(Wikipediaより抜粋)

1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄(東京メトロ)、以下営団地下鉄)丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であるとともに1994年(平成6年)に発生したテロ事件である松本サリン事件に続き、大都市で一般市民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件として、全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた。

事件から2日後の3月22日に、警視庁は新興宗教団体オウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教団教祖の麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。

東京地方裁判所は、首謀者の麻原彰晃を始め、林郁夫を除く散布実行犯全員に死刑を言い渡した。2009年(平成21年)12月10日、最高裁判所で上告が棄却されたため、総合調整役である井上嘉浩の死刑が確定した。

2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で指名手配されていた容疑者は全員逮捕された。

■「倫理なき社会で道徳が失われるとき」

 オウム真理教事件についてかんがえようとしたとき、はじめに手にとったのは、宮台真司氏の『終わりなき日常を生きろ』であった。少し引用してみよう。

私たちの社会には、もともと一神教的な神はいない。だからそういう神の前で感じ入る「罪の意識」もあり得ず、他人に指弾されようが「我、これを信ず」と言い続けられるような「内的確かさ」もあり得ない。私たちの社会は「倫理」なき社会だ。倫理の代わりに見いだされるのは、自分の属する共同体のメンバーにとって良きことこそが良きことであると感じるような、共同体のまなざしによって自らを持する「外的確かさ」である。これを「道徳」という。「良心」という抽象的な観念は、神のまなざしを前にした「倫理」と、共同体のまなざしを前にした「道徳」という、排他的な二つの類型に分割できる。

 しかし、高度経済成長期には地縁・血縁型共同体、すなわち「ムラ」的共同体の崩壊が顕著になり、かつて日本社会に自然とともに根付いていた「道徳の母体」は消失した。

 その結果、と、宮台真司はこう続ける。「倫理なき社会で道徳の母体が消失するとき、”私たちが良心的存在たりうるのはいかにしてか” という問題だけが残った」。

■非社会的存在が反社会的共同体で社会的存在であること

 オウム真理教は、一つの閉鎖的な共同体である。どのあたりが閉鎖的と言えるかというと、「家族や友人など既存の関係を全て放棄して出家する」点で閉鎖的と言える。 信者は、社会から隔離された山梨県西八代郡上九一色村の「サティアン」と呼ばれる施設のなかで、考える隙も与えられない過酷なワークに耐え、信者と共に暮らし、麻原の声が吹き込まれたカセットテープを脳に流しこむ。この状態で洗脳されない方が異常である。

 このようにしてオウムは「強固な内部」を構築する。「崇高など内部」と「邪悪な外部」という単純明快な図式は、さらに内外の境界を強固なものにするというポジティブなフィードバックを働かせる。

 ここで重要なのは、そもそもどうして彼らは出家するに至ったのか、という問題だ。

 80〜90年代、「道徳の母体」が消失した同時代は、「家族の崩壊」も顕在化していた時代であった。家庭とは、「なにがあろうと帰ってこれる居場所」だ。地域共同体は、道徳の母体であると同時に「自己を諒解・承認できる居場所」であった。

 道徳が規定される装置、帰ることのできる居場所。両者が破綻状態にあった当時、オウム真理教は、その空白を埋めあわせるかのように、立ち上がった。 人びとのこころに生まれた小さな空白を、「崇高なる共同体」は埋めてくれた。

 しかし、このように思うのは、家庭環境が実際に崩壊状態にあり、なおかつ地域の中間的な共同体にも介入することができなかった人びとである。オウムの幹部には高学歴の者が多く在籍していたが、彼らも、エリートではあるものの、社会から承認されなかった者達であると、関連書籍や映像を観ながら感じた。

 また、ロシアでは、ソ連崩壊後に拠り所を無くした国民が、大量にオウム真理教の信者となり、当時は3万人の信者がいたという。これも、オウムが心の空白につけ込んだ具体例である。

 そのような、非社会的存在が、自己を諒解できる共同体となったのが、オウムであった。

 非社会的存在である彼らは、オウムという反社会的共同体のなかで、社会的存在としてふるまおうとする。共同体において肯定的にふるまうこと、すなわちその共同体の「精神の習慣」を身に付けること、具体的に言えば、麻原の教えに同調的にふるまうこと。非社会的存在が、反社会的共同体の精神の習慣に過剰に適応した結果、サリンをばらまくに至るのである。

 だから僕は、オウム真理教事件は、家族・地域共同体の崩壊による「他者の承認不足」が引きおこしたと考えているのだ。

■ 断片化された自己を共有せよ

 ここまでで述べてきたように、オウムは、「自己全体を共同体の一部として再生産する」タイプの共同体である。

 対照としては、「自己の断片を共有する」タイプの共同体がある。趣味のサークルや習い事がこのタイプの共同体である。ほっこり村もこのタイプだ。

 これは、「どこまで共同体に包摂されているか」という問題である。 オウムは、頭、身体、人生、背景、それら全てが共同体に包摂される。 僕が最後に述べたいのは、そんな地域共同体は必要ない、ということだ。

 冒頭で述べた「倫理なき社会」では、絶対的な善、正しさなど存在し得ない。これほどまで社会は複雑化・多様化した今日では、特にその傾向が強い。

 だから、全ての善や正しさは、相対的であり、断片的なものとして存在せざるを得ない。一神教的な倫理に裏打ちされた社会では、売春はいけないだとか、嘘はついちゃいけないとか、そういった「絶対的な善」は存在する。しかし、無神教的な「倫理なき社会」における善の存在は、複雑で多様な社会のなかで断片として存在し、それぞれ相対的に規定されているだけであるのだ。例えば、「嘘」は絶対的にいけないわけではない。相対的に、その善悪は規定されている。

 「他者による承認」を獲得するために必要なのは、そういった「絶対的な善」なる幻想を放棄し、相対的な「断片化された善」を指向することなのではないか。

 もちろん、「他者による承認」だけを目指すのであれば、オウムのような「絶対的な善」を指向する共同体だけに介入していれば良いことになる。しかし、一人の人が一つの共同体にしか介入していない社会はあまりにも脆く、先述した「適応した故の暴走」につながりかねない。

 どんな共同体の在りかたが健全な社会を築くのかといえば、多種多様な共同体がそのまま存在できることであり、一人の人が、一人の「断片的な “善”」を持ち寄って共有することができる共同体に幾つも介入することなのである。

 「断片化された善」を共有できる共同体に介入すること。健全に「他者による承認」を得るための方法は、かなり限られているはずだ。それが、オウム真理教事件を再発させないための、原因療法的な処方箋であると思う。

2013-03-20 | Posted in 人文, 社会No Comments » 

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