まちづくりの哲学(講演), 蓑原敬×宮台真司, 代官山ヒルサイドテラス, 2012.03.

 代官山という地域は、都市計画に基づいて統一的に全体が設計されている。今回、対談が行われたヒルサイドテラスは、代官山の象徴のような建物で、品の良い書店や数々のセレクトショップとともに、綺麗に代官山の街並みに溶けこんでいた。

 社会学者の宮台真司氏と、建築家の蓑原敬氏の対談は、「まちづくりの哲学」シリーズの最終回ということもあいまって、都市計画にかんする具体的な話ではなく、「人間の合理性はなぜ誤ってしまうのか」という根本的な議論が主題であった。
 まず、対談の冒頭で、宮台氏によって「人間の合理性はほんとうに正しいのか」という問題提起がなされた。
 人間の善悪の判断だとか、民主的な意思決定とか、そういった自由意志というのは、しばしば誤ってしまうものではないか、ヒトの眼差しを超越した場所に、ほんとうに正しい「合理性」が存在するのではないか、そんな提起であった。
 「ヒトの眼差しを超越した合理性」の代表例として、「自然」や「生命」の論理というのがある。人間の言語で記述した自然科学の理屈では認識不可能な合理性があって、ヒトが当然のように持つ合理性とは異なった論理で動いている。都会で育った子どもが初めて森に入ると、自然の理屈を暗黙知として取り込んで大人になるのと同じように、社会を構成する我々も、言語による知だけでは記述不可能な合理性の存在、あるいは非言語による知性の広がりに気付く必要があるはずだ。
 例を挙げれば、「宇宙人は存在するか」という議論も、ヒトの価値判断が、人工的な論理/合理性に依存しているからこそ生まれる話題である。
 地球の歴史は46億年にのぼり、宇宙の歴史は137億年(13.73±0,12billion years old)とされている。もし仮に、137億年の歴史のどこかのタイミングで知的生命体が存在していて、そのうえで地球という惑星に訪れたとしても、46億年の歴史のなかでアウストラロピテクス以降(300万年程度)の期間に訪れる可能性は限りなくゼロに近い。
 それに、NASAが2010年12月に発表した「GFAJ-1」という微生物は、リンではなく高濃度のヒ素を細胞内に摂取してDNAやタンパク質合成を行う極限環境微生物で、この発見が暗示しているのは、我々が「生命である」とかんがえる生命体 “以外” の生命のモデルが存在する、すなわち、ヒトが「生命とはこれだ」とかんがえる論理が裏返されてしまったという事実である。
 なにが言いたいかというと、我々が普段「確実」であるとおもいこんでいる論理的あるいは合理的な知覚世界、すなわち「ヒトの合理性こそが世界認識の正解である」といった[確実さ]の世界に対して、「 “ヒトの合理性” 以外の尺度が存在するんじゃないか」と疑いの目を向けるような等価機能主義のシステム理論的発想(後述)への転換が、解決困難な諸問題が山積する未曾有の時代における重要な課題なのではないか、ということが言いたい。
 では、人間の合理性とは異なる「自然」や「生命」の合理性は、いかにして可能なのか。どうすれば、[確実さ]の知覚世界に住んでいる自己を疑い、本質的にただしい道徳を獲得し得るのだろうか。
 18世紀末に、デカルトやニュートン的な機械論的世界観に抗う形で、「生気論」や「有機体論」の潮流が生まれた。それは、いわば我々の合理性を「自然」に近づけようとする試みであったようにおもう。要素還元主義を否定し、非言語による知へのパラダイムシフトを目論んだ生命論的な科学革命は、人間による機械論的な論理の限界をかんじていたからこそ生まれた生態学的転回であったはずである。
 僕自身は、人間の合理性を超越するために有用な手法のひとつとして、「システム理論の発想を持つこと」を挙げることができるとおもう。理論社会学にオートポイエーシスの概念を応用したことで有名なニコラス・ルーマンは、システム理論の記述目標を「等価機能主義にの図式に基づく、他であり得る可能性の模索」であるといった。
 「生命や自然の持つシステムをメタファー(隠喩)として、他の領域に応用する」ことを記述目標としたシステム理論を駆使することで、人間の論理をいくら積み重ねたって辿り着くことのできない「ほんとうの正しさ/合理性」へと、ヒトの合理性を誘導することができるとかんじる。
 だから、ほんとうに正しい合理性というのを記述するためには、等価機能主義的な視点が不可欠で、生命や自然の論理を人間の合理性にあてがうシステム理論的な発想が、ルーマンが論じた理論社会学の社会システム理論にしても、今回の対談テーマである都市計画にしても、なんにしたって重要なのだと、僕はこの対談を聴いていてかんがえていた。
 科学の高度専門化にともなって、必然的に、学際的研究であることだとか、医療福祉領域の言葉でいうと多業種連携とか、そういった理念が重要になっていくことは自明だとおもうけれど、まずはじめに達成すべき命題は、自然や生命をメタファーとした、新しい領域横断的な統一理論を構築することであるとおもう。
 本質的な意味での「学際」とは、たんに連携して分業するようなクロスオーバーではなくて、自然を俯瞰的に観察しながら、生命や社会をめぐる統一理論を生みだそうとする主体的努力のことを指すんじゃないか。
 上記のような動機で、僕は、自然のシステムが持つ合理性を記述して、そのままだと細分化したままの論理を他の分野に適用するために、いまは鶴見ほっこり村で、共同体にかんする問題、ことにオートポイエーシスの概念を共同体のモデルにできないかと、春休みが始まってからは、あるいは代官山での対談を聴いてからは、そんな勉強をしている。
2012-03-27 | Posted in 人文, 社会No Comments » 

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