iフィルター化された社会 〜子どもは、選別されたコミュニケーションを選択すべきか?

i-filter自宅に帰るまでの都営大江戸線は、それほど混んでいるわけでもないが、かといって毎回座れるわけでもない。

その日は僕は立っていて、ドアに貼られている交通広告を、ぼーっと眺めていた。

そこには、女子高生の制服を着たモデルの横に、赤い文字でこう記されていた。

なんと女子高生の38.5%。それは、インターネットで知り合った人に実際に会ったことがある割合。
インターネットをきっかけとした危険から子どもを守れるのは、「フィルタリング」でした。

この広告を見て、僕は無性に腹が立った。どうしてかはわからない。テスト期間の慢性的な睡眠不足のせいかもしれないし、不安を煽る広告手法が嫌いだっただけかもしれない。とにかく、僕はその広告にうんざりとした。

あれから1ヶ月ほど経って、iフィルターのWebサイトにアクセスしてみた。赤くて下品なサイトに書かれていた文章を引用してみる。

いまや、ネット交流が当たり前の時代。未成年にとってもSNSなどの利用は友人との大切なコミュニケーションの手段になる一方、顔の見えない人々との交流も容易になり、未成年を狙う犯罪者と出会ってしまう危険性も想像以上に高まっています。

なぜあの夜、大江戸線の広告を見てうんざりとしたのか、今日は僕なりに、その不快感を分解してみようとおもう。

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■フィルタリングソフトや青環法について

まずは、基本的なデータや用語などから簡単に記していくことにしよう。

iフィルターをはじめとした、フィルタリングソフト・有害サイトブロックサービスは、Web上のページの有害・無害をプログラムにより評価し、選択的に排除する。

これらのプログラムの目指すべきは、青少年を有害な情報・社会環境から切り離すためである。

『青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律(2008年に可決・成立)』の目的である、「青少年がインターネットを利用して青少年有害情報を閲覧する機会をできるだけ少なくするための措置を講じ(中略)、青少年の権利の擁護に資すること」が、フィルタリングソフトの目指している地点だ。

しかし、Web上において青少年の有害な情報を排除することと、青少年が健全に育つことのあいだには、統計学的な因果関係はないと考えられている。スウェーデンでは、2005年より児童ポルノのWeb上へのアップロードに規制をかけているが、強姦の発生件数は減少するばかりか増加傾向にあるという。

日本でも、少年犯罪の発生件数と外的な社会環境要因との因果関係は否定されており、ちなみに少年犯罪の発生件数自体は昭和30年代をピークに減少し続けている。

このサイトの記事からの引用になるが、日本における少年犯罪の発生件数を表したデータが、下図である。

少年犯罪発生件数

 

また、「Webを通じて悪しき性的コンテンツにアクセス可能である」今日における性犯罪の発生件数は増加してそうなものであるが、以下がその発生件数のデータだ(またこちらの記事からの引用)。

性犯罪発生件数

以上のような統計からも、「有害な情報にアクセス可能であること(情報がフィルタリングされていないこと)」と、犯罪発生件数のあいだには相関関係はないことが理解できると思う。

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■健全な精神は如何に養われるか

では、結局のところ、なにが強姦や凶悪犯罪を抑止するのかというと、それは道徳だとか倫理なのではないか、とおもう。

法や条例などの巨大なシステム、もしくは自動化されたプログラムにより、青少年を取り巻く社会環境が有害でなくなる、なんてことは幻想である。

例えば、女子高生を盗撮して、それをWeb上にアップロードすることも、それをダウンロードすることも、この一連のプロセスを制限することができるのは、道徳であり、倫理ではないか。

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■メディア・リテラシーの不活化

また、次のような観点でiフィルターに対して疑問を呈することもできる。
<閲覧されて良い> 情報と <閲覧されてはならない> 情報との線引きは、プログラムによって完全に自動化されるべきなのだろうか。本当に?

青少年が情報の有害・無害を判断するプロセスこそ、メディア・リテラシーではなかったか。
なんのための前進守備メディア・リテラシー教育だ。

この類のサイトは見てはなりません、という取り決めも、もはや、青少年のメディア・リテラシー、あるいは親子間のコミュニケーションでは、手に負えなくなってしまったようである。

入ってくる情報がフィルタリングされた、ないし無菌化された社会環境のなかで育った子どもたちは、10年後、次のように口を揃えるに違いない。

「フィルタリングされていないから、この情報は善いものだ」
「これはフィルタリングされた情報だから、この意見は社会から排除すべきである」、と。

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■水清ければ魚棲まず

先述したが、無菌的な社会環境で育った子どもと、有害環境と無害環境が選択可能であった子どもでは、彼らの問題解決能力や判断能力に違いが出てきても不思議ではない。

高校3年生のとき、なんだか怪しいサイトで25万円の自動車免許詐欺に引っかかった僕の親戚の方が、全く有害情報を見たことがない親戚と比べて、たくましいと言えるのではないだろうか。

動物園のキリンさんと野生のキリンさん、両者の平均寿命は後者の方が長いそうである。ライオンさんに食べられてしまったり、餌がなくて死んでしまう可能性を含めても、だ。

以上に述べたように、「安全に安心してインターネットを利用できる環境」は必要であるが、それを外在化されたプログラムでフィルタリングするのは、少しやり過ぎではないだろうか、というのが、僕の正直な立場である。

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■「選択された」コミュニケーション

さて、ここからは少し視点を変えてみようと思う。

僕は全国にほっこり村(hokkorimura.com)というコミュニティづくりをしていて、その観点から少し言えるものがあると考えたからだ。

iフィルターが排除した範囲のWeb上には、いまも様々な異文化・異世代が集まるコミュニティが形成され続けている。

一方で、偏差値で輪切りにされた子どもたちは、自分と似たようなコミュニティにしか介入することを許されない。というか、それ以外の選択肢を、彼らは持っていない。

なぜならば、彼らの友達も、偏差値というフィルターによって選別・フィリタリングされた環境だからである。

僕はこれを、<iフィルター化 (i-filterized)> と名付けたい。

iフィルター化とは、一元的な指標によって恣意的に機会が選択されてしまう、そのプロセスのことだ。

自分と似たり寄ったりの、選択されたコミュニケーションしか選択することのできない環境では、異世代・異文化の多様性を受け容れることは、まず不可能である。

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■コミュニティの重層性が「排除されない生き方」をつくるワークショップ

また、たとえ学校というコミュニティのなかで上手くいかなくとも(成績不振とかイジメによって)、学校以外で自分を受容してくれるコミュニティがあるだけで、どれほど心が「ほっこり」とするだろうか。

例えば、ニコニコ生放送なんかは、そのコミュニティとして機能しているように見える。

「学校」と「家庭」以外にも、自分が生きる世界がある、自分を受け容れてくれる共同体がある。このコミュニティの重層性が、より多くの者を包摂する社会の足がかりとなるのである。

ある種、ほっこり村はそれを目指しているとも言える。ほっこり村は、こどもからシニアまでが集まれるワークショップの場であり、そこでは互いに多様性を受け容れることが村の前提条件である。

これまで選択されたコミュニケーションしか選択することのできなかった子どもたちは、村に参加するお兄さんやお姉さん、大学の先生とのコミュニケーションを通じ、他者を受け容れる体験をすることによって、自らの価値観が絶対的なものではないことを体験する。それが、ほっこり村という個性が集まる場の持つ意味なのだ。

しかし、コミュニケーションが恣意的に選択されるiフィルター化された社会では、他者と触れ合い、自分とは異なる文化を持った人びとを受け容れる能力が養われない。

グローバル時代における本質的なコミュニケーション・スキルとは、一握りのエリート同士の「会話」ではなく、異文化と多様性を横断する「対話」でなかったか。

以上、あの夜の僕の不快感は、以下の2点に分解されるのであった。

 

  1. 「無菌化された環境」が「健全な環境」であるのかという疑問
  2. 選択的・排他的なコミュニケーションに対する危惧

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女子高生の38.5パーセント。
うーん。たいして問題のある数値だとは思えないのだが。

2013-02-16 | Posted in 人文, 社会No Comments » 

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