「暴力団排除条例」―民主主義の怠慢と社会保障制度の機能不全

■暴力団排除条例とは

暴力団排除条例 東京都

2011年10月1日、東京都と沖縄県で暴力団排除条例が施行され、全都道府県から暴力団の組合員およびその関係者、そして密接な関係を持っている企業・市民も、排除される対象となった。

この条例の下においては、宴会の席で会場を提供したり、記念写真の業務を受けたり、食事を宅配することも利益供与と見なされ「密接な関係」であるとされるため、インターネット上に企業名が公開され、「1年以下の懲役または50万円以下の罰金」が科せられる。

このように、暴力団排除条例は、暴力団の活動を取り締まる条例ではなく、「暴力団と付き合っている人を取り締まる」点で特徴的である。確かに、現在の暴力団の体制を一掃するうえでは、非常に効果的な条例であると言える。

 

■「ヤクザは人ではない」のか

僕の古くからの友人に、暴力団関係者がいたとしよう。

そのとき僕は、彼に対してどのように振る舞えばよいのか。彼と昔のように付き合い続けるべきなのか、それとも条例に従って彼を排除すべきなのか。

僕は、彼と築き上げてきた関係性を、全て無かったことにできるだろうか。無かったことにするべきだろうか。

答えは簡単である。そんなことするべきではないし、できっこないのだ。いくら法治国家と言えども、法律より道徳や友情の方が大事なことだってある。

昨年10月の東京都での施行を受けて、日本最大の指定暴力団である山口組の篠田建市組長は、産経新聞の取材に応じ、「異様な時代が来た」として次のように述べている。

篠田建市, 司忍, 山口組

やくざといえども、われわれもこの国の住人であり、社会の一員。昭和39年の第1次頂上作戦からこういうことをずっと経験しているが、暴力団排除条例はこれまでとは違う。われわれが法を犯して取り締まられるのは構わないが、われわれにも親がいれば子供もいる、親戚もいる、幼なじみもいる。こうした人たちとお茶を飲んだり、歓談したりするというだけでも周辺者とみなされかねないというのは、やくざは人ではないということなのだろう。(中略)今回の条例は法の下の平等を無視し、法を犯してなくても当局が反社会的勢力だと認定した者には制裁を科すという一種の身分政策だ。

裁判では、「推定無罪」ということばがある。周防正行氏の映画『それでもボクはやってない』(2007年)では、「十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ」という一文が出てくるし、映画中にも「刑事裁判の最大の目的は、無実の人を罰してはならない、ということです」という裁判官の台詞が登場している。

それでもボクはやってない

今回の暴力団排除条例では、暴力団関係者というだけで「推定有罪」となる。篠田氏も述べていたように、これは「法の下の平等」という近代法の基本原理を犯している。
犯罪心理学に「割れ窓理論(broken windows theory)」というセオリーがあるように、「悪いことをしそう」というだけで罰することは、多くの者が社会的に排除される、ゆがんだ社会を作り上げていく。
戦前には「治安維持法」という法律があった。治安を乱すものは徹底的に社会から排除していく。暴力団排除条例も、治安を乱す “可能性のある” 共同体の破壊・排除を目的としているため、民主主義の基本的な理念に違反している。

 

■民主主義と排除の原理

そもそも「排除の原理」は、民主主義そのものの仕組みのなかに本来的に組み込まれているものである。

民主主義の大前提は「人文主義・ヒューマニズム」である。人間が中心であるから、主権を持つことが許される。

さらに「多数決(majority decision)」も民主主義の前提のひとつだ。政治過程は、多数派の総意によって決定されていく。

しかし、多数決によって政治過程を決定することは、裏を返せば「少数派の意見を排除する」ということでもある。

であるから、民主主義の前提であるヒューマニズムと多数決とを安易に結びつけてしまうと、極端な話かもしれないが、「少数派は人間でない」ことにもなりかねない。安直なヒューマニズムが、多数決の仕組みを介して、排除の原理を起動させるのである。

現に、政治家は、暴力団排除条例を批判すれば、私は暴力団を肯定しています、と宣伝しているようなもの(=票が集まらない)なので、なにか思っていたとしても受け容れざるを得ない。この現状を、形式的な多数決と民主主義の腐敗と言う以外に、なんと形容できるであろうか。

 

■社会保障制度の機能不全

そもそも、暴力団から脱した人びとに対する社会的な保障が無い時点で、これは国家の怠慢であると考えざるを得ない。

暴力団は社会に貢献していないから排除する、という理屈が暴力団排除条例の論理であるならば、排除された人びとが社会復帰できるような環境を整えることが、国家の責務ではないか。

暴力団排除条例の問題点は、経済的な面で構成員に制裁を加えるだけでなく、彼らの社会的な関係性を破壊していく、という点だ。地域に、故郷に、社会に知り合いがいなくなることで、完全に社会から抹殺され、社会復帰が更に困難になる。

 

■拠り所としての暴力団なる共同体

暴力団員の家族に生まれ、同様の環境のなかで育ってきた者、生きる場が暴力団にしか無かった人びとでさえ、経済的に追い込まれ、社会的に排除される。

冒頭の産経新聞の記事でも、山口組ないし暴力団は、社会にうまく適合できない者に対し秩序を与えている、と篠田氏は述べている。

ちりやほこりは風が吹けば隅に集まるのと一緒で、必ずどんな世界でも落後者というと語弊があるが、落ちこぼれ、世間になじめない人間もいる。われわれの組織はそういう人のよりどころになっている。(中略)そういう人間を一つの枠で固めているから犯罪が起きにくいという一面もある。矛盾しているように聞こえるかもしれないし、なかなか信じてもらえないだろうが、俺は暴力団をなくすために山口組を守りたいと考えている。

このように、暴力団という共同体には、落伍者の受け皿としての機能があることは認めなくてはならない。ある種の共同体・コミュニティである。このような拠り所は、多くの場合、破壊せずに残しておく方が良い。なぜ暴力団という共同体を擁護する必要があるのかについては、後述することにする。

 

■暴力(Violence)とはなにか?

フィッシャーのだまし絵, 天使, 悪魔

暴力団しか生きる場が無かった人について触れたが、いわゆる「善良な一般市民」であっても、状況次第で暴力的になる可能性を潜在的に持っている。少し話が逸れるが、書いてみよう。

社会心理学者のPhilip Zimbardoは、映画にもなったスタンフォード監獄実験のなかで「人は状況によって善にも悪にもなり得る」可能性を示唆した。

善良な一般市民でも、ひとたび状況が変われば、暴力を行使する悪魔になってしまうかもしれない可能性を抱きかかえながら暮らしている。これは普通のことであるし、僕だって状況によっては人を殺してしまうかもしれないのだ。それが「生きる」ということなのである。

このように、善と悪の区別は、じつは非常に曖昧である。

この絵はフィッシャーのだまし絵だが、ひと目見ると天使だけが存在しているかのように思える世界でも、視点を変えると悪魔が溢れかえる世界になる、というメッセージが伝わってくる。

また、暴力についても、合法的なものと不法的なものがあるのではないか。暴力violenceが不法なもので <悪> だとしたなら、forceは悪なのか?ドイツ語で暴力を意味するゲバルトgewartは悪か?なにが合法的で、なにが不法的なのか。

僕が軍人だとして、向こうに敵がいたとして、敵がバッグのなかに手を差し込んだとして、僕は引き金をひくべきであろうか。やむを得ず引き金をひいたとき、その時は正当防衛であると確信していても、その確信自体が間違っていたら、僕は暴力violenceを行使したことになるのだろうか。

violenceと、gewartあるいはforceを分けることは、大変に困難なのである。

注目すべきは、前述したように、人はある状況に置かれたとき、ある種の力を行使してしまう可能性を常に持っているということだ。両者はカンガルーの親子みたいに切り離せないものなのである。

僕は劇作家・演出家である野田秀樹氏率いるNODA・MAPの『THE BEE』(2010)という舞台を観たとき、衝撃を受けた。

野田秀樹, the bee,

1時間前まで善良な市民であったサラリーマンが、自宅での立てこもり事件という状況を介して、次第に狂ってゆき、自ら立てこもり事件を起こす。

サラリーマンは、暴力violenceを行使したと言えるのか。言えないはずだ。<暴力を行使せざるを得ない状況> に置かれているからだ。

であるから、我々一般市民も、ふと何かの引き金をひかれたり、ある状況に投げ込まれたときは、暴力を行使してしまう可能性も、暴力団と関わって社会的に排除される可能性も持っているのである。

 

■「健全な社会」とはなんだったか

トクヴィル

そもそも、暴力団が <反社会的> であるという理由で、国家や公権力が、その共同体を弾圧してしまうことは、ほんとうに正当なことだろうか。

「健全な社会」とは、「善良な市民だけで構成された安心・安全な社会」ではなく、「ボランティア団体も趣味サークルも暴力団も、多様な共同体や考え方が存在している社会」でなかったか。

『アメリカの民主政治』を著したトクヴィル(Alexis de Toqueville)は、「多様な精神の習慣が存在する社会」こそが健全な社会であると言った。精神の習慣とは、考え方・生き方ということばに置き換えてもよい。人びとがそれを身につけるのは、自分の介入する共同体である。会社という共同体に属していれば、会社組織の一員としての精神の習慣を身に付け、例えばほっこり村という地域社会の共同体に介入すれば、そこで会社とは異なった精神の習慣を身に付ける。

 

だから、多様な共同体が社会のなかに存在して、多様な精神の習慣が存在する社会が、健全な社会である。逆に、一つの理念が社会を支配すれば、それは「危険な社会」である。精神の習慣が一元的であったならば、その精神だけが正義となり、少数派の精神の習慣を圧迫する抑圧的な社会が生まれてしまうためである。

180年も前になされたToquevillの提起を聞いたあと、暴力団排除条例が全都道府県で施行され、暴力団という共同体が弾圧されるニュースを見たら、少しは見方が変化するに違いない。

 

■おわりに

現代日本の、いわば「無菌的な社会」に、多少の住みやすさを覚えながらも、これは本当に正しい道なのか、という違和感も覚える。

無菌的であるということは、感染の心配がないということではなく、少しの刺激にも抵抗できない危うさを孕んでいるということなのである。

反社会的であるという理由だけで、幾つもの共同体を排除するのは、社会の多様性と抵抗性を押しつぶすことに他ならないのではないだろうか。

いろいろと書いてきたが、僕は暴力団を肯定しているわけではない。痛いことや悪い人は嫌いだし、実際には暴力団関係者の地元の友人なんていない。

しかし、健全な社会とはなにか、人間にとって何が本質なのかという原点に立ち返ってみると、自ずと答えは見えてくるはずである。

1年以上前のニュースなので、書こうかどうかも少し迷ったが、どうしても僕のなかにある違和感を、書いておきたかった。

2012-12-30 | Posted in 人文, 社会No Comments » 

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