オートポイエーシス −第三世代システム, 河本英夫, 青土社, 1995.【前編】

―1972年、チリでハトの網膜の研究に従事していた神経生理学者が、システム論の体系を大幅に変更する理論を発案した。

マトゥラーナ

Humberto Romesín Maturana (1928-)

それはひどく未完成な状態で提示されたのだが、その偉大な創意は、既存の経験科学からシステムの捉え方、表記の仕方、アプローチの手法を根本的に覆してしまうほど魅力的な文学性をふくんでいた。

「オートポイエーシス」。動的平衡系、自己組織化に続く、第三世代のシステム理論である。

有機体をオートポイエーシス・システムと仮定すると、システムには以下の四特徴が挙げられる。

  1. 自律性
  2. 個体性
  3. 境界の自己決定
  4. 入力と出力の不在
 少しでも生物学を学んだことがあったり、細胞の基本的な構造・機能を知っている方ならば、「入力と出力の不在」という特徴を見て、なにか引っかかりを覚えたはずである。
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 生命には入力も出力もないのか?オートポイエーシス論を社会システム理論に応用したニコラス・ルーマンは、「閉じているが故に開かれている」と言った。これはどういう事態か。
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 オートポイエーシスでは、「システムを捉える観察者の視点」に、大幅な変更が加えられている。
 まずはアロポイエーシス・システムと、オートポイエーシス・システムを対比しながら、どのように変わったのかを見ていこう。
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 アロポイエーシスは、対他的反照規定であり、他の物体との関係のなかに自己システムの存在が位置付けられることによって、システムの作動がはじめて規定されるシステムである。
 例えば、自動車の部品は、それひとつでは作動することはできない。他の部品との関係性のなかにそれが位置付けられてはじめて、作動する意味を持つのである。
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 一方でオートポイエーシスは、自己システムを自己に対して規定し、自己を規定し続けることによって作動するシステムである。他の物体に自己の維持や意味が規定されているのではない。自己の構成要素を繰り返し産出することによって、自己システムを作動させ、自己システムを規定し続けているのである。
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 ここでいう「自己の産出」においては、たとえ外部からの栄養物の取り込みがあったとしても、それを自己の構成要素の産出プロセスに従属させ (自律性) 、そのプロセスによって自己同一性を維持し (個体性) 、自己の境界を産出し続ける (境界の自己決定)。
 だから、<入力も出力もない> という事態が生じるのである。オートポイエーシスではシステムを内的に捉えている。システムにとって (fur sich) という視点を設定しているから、そこに入力と出力は見えない。うまく言えないが、オートポイエーシス・システムは「制御対象」ではなく「自律主体」なのである。自分が、自分自身をつくり出し、自分という閉域を構築している。それは産出的作動の繰り返しによって裏付けされている。この循環的な産出プロセスにおいては、入力も出力も、自己自身へと回帰せざるを得ないのである。

 だからオートポイエーシスは「自己言及的」だとか「反省的機能を持つ」といった風に形容される。高次の自己触媒システムの産出プロセスはすべて、自己という閉域へと回帰していくのだ。

■作動によって存在するシステム

これまで述べてきたように、オートポイエーシスは作動し続けるが故に成立するシステムである。システムの作動を中心に組み立てられたシステム理論だ。システムの作動に先立っては、そこに内部も外部も存在し得ない。システムは自らの作動によって自らの境界を区切り、自らの同一性を維持し続ける。それは円環的・循環的な閉域に回帰する。

ここで非常に重要なのは、そのことを、システム自身は意図していない、という点である。

 システムは、”ただ作動し続けている”。”ただ自己の構成要素を産出し続けている”。その反復的作動によって、システムには境界が導入され、システムは規定され続ける。システムにおける境界導入、もっと言えばシステムがシステムであることは、意図されたものではないのだ。
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 この点については、マトゥラーナがわかりやすい比喩を用いて説明しているので、少し長いが、引用してみよう。
 まず私たちが二つの家をつくりたいと思っているとしよう。この目的のためにそれぞれ十三人の職人からなる二つのグループを雇い入れる。一方のグループでは、一人の職人をリーダーに指名し、彼に、壁、水道、電気配線、窓のレイアウトを示した設計図と、完成時から見て必要な注意が記された資料を手渡しておく。職人たちは設計図を頭に入れ、リーダーの始動に従って家をつくり、設計図と資料という第二次記述によって記された最終状態に次第に近づいていく。もう一方のグループではリーダーを指名せず、出発点に職人を配置し、それぞれの職人にごく身近な指令だけをふくんだ同じ本を手渡す。この指令には、家、管、窓のような単語はふくまれておらず、つくられる予定の家の見取図や設計図もふくまれてはいない。そこにふくまれるのは、職人がさまざまな位置や関係が変化するなかで、なにをなすべきかについての指示だけである。
 これらの本がまったく同じであっても、職人はさまざまな指示を読み取り応用する。というのも彼らは単なる位置から出発し、異なった変化の道筋をとるからである。両方の場合とも、最終結果は同じであり家ができる。しかし一方のグループの職人は、最初から最終結果を知っていて組み立てているのに対し、もう一方の職人は彼らが何をつくっているのか知らないし、それが完成されたときでさえ、それをつくろうと思っていたわけではないのである。
 河本英夫は、ここではオートポイエーシスのコード化の意味が変更されている、という。
 職人をリーダーに指名した場合のコードは、設計図となる。設計図というコードに合わせてシステムは目的合理的に作動する。
 一方、リーダーを指名しなかった場合のコードは、「構成要素の産出プロセスの関係」だけである。この場合、コードの具体的内実はシステムの作動に先立っては何も決定されておらず、構成要素の産出を通じて、そこではじめてコードの具体的内実が決定される。
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 河本は、前者のコードは「結果から構成されたコード」であるという。このコードには、明らかに結果から見た事態の記述という抜きがたい目的論的傾向がふくまれている、とも。
 そして、後者・オートポイエーシスのコードを、次のように表している。前者のコードが f (x,y,z,…) であるのに対し、それは、
f (□, □, □, □,…)
 である。□には、システムが作動しながら獲得する変数が入ることになる。□は、作動に先立っては何ひとつ決定されていない。
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 それは、「行為のコード」であるとも言える。システムはシステムが行為し続けることによって、システムを産出し、システムを規定し続ける。この点でオートポイエーシスは行為存在論的なのである。
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 第二世代システム理論でも、境界の存在をどう捉えるかという問題は幾度となく主題化されてきた。これまで論じられてきた「境界」とは、地面に円を描いて内部と外部を区別するものである。これに対しオートポイエーシスでは、地面の上を猛スピードで円を描くように走り続けるものだ。
 このとく疾走者は、境界導入を意図しているわけではない。ただ疾走をし、円を描いているだけである。だが、観察者から見ると、疾走者は境界を産出しているように見える。
 このとき、疾走者が走りやめば、境界はたちまち無くなり、内部と外部は消滅する。これがオートポイエーシスが行為存在論的だということであり、システムの境界導入がシステムの作動に依存している所以である。
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 だから、例えば細胞システムは、細胞膜が画定した閉域によって境界が決定されているのではなく、細胞の構成要素を反復的に産出し続ける領域によって境界が決定され続けている。その産出プロセスのネットワークが、細胞システムの本体だと言える。細胞システムが存在するために必要な条件は、細胞システムが産出的作動を繰り返すこと、ただそれだけなのである。後編では、このあたりのことを前提として、僕なりのオートポイエーシスを捉えてみたいと思う。

■オートポイエーシス・システムの定義

自己の構成要素を産出する作動をし続けること。それが、システムがシステムであるための唯一の方法であることを述べてきた。

 正直に言って、僕もまだこの理論の全体像を摑みきっているわけではないので、かなり不十分な説明であったと思うが、ここでマトゥラーナとヴァレラによるオートポイエーシス・システムの定義(1972)を載せておく。
 オートポイエーシス・システムとは、構成素が構成素を産出するという産出 (変形及び破壊) 過程のネットワークとして、有機的に構成 (単位体として規定) されたシステムである。このとき構成素は、次のような特徴を持つ。(i) 変換と相互作用をつうじて、自己を産出するプロセス (関係) のネットワークを、絶えず再生産し実現する。(ii) ネットワーク (システム) を空間に具体的な単位体として構成し、また空間内において構成素は、ネットワークが実現する位相的領域を特定することによってみずからが存在する。
※後編につづく

2012-12-15 | Posted in 自然科学No Comments » 

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